1954年の春、パリに到着してみると、街の壁に取り残されたポスターが貼られたままでいる。ブレヒトが率いる“ベルリーナー アンサンブル”の「肝っ玉おっ母とその子どもたち」。前年に開かれた第1回国際演劇祭(主催ITI)の時のもの。会場は、現在コンテンポラリーダンス用に改築されているパリ市民劇場の前身、サラ・ベルナール劇場だ。それは演劇史に残る画期的な事件とも言える公演だった。なにしろ1770年のディドロの『逆説・俳優術』刊行以来の論議を呼んだ、ブレヒトが演劇論と俳優術を引っ提げての公演だった。幸いにもその数ヶ月後の、第2回の国際演劇祭にも同劇団が招待されていて、今回は『コーカサスの白墨の輪』である。“ベルリーナー アンサンブル”は噂こそ聞いてはいたものの、“鉄のカーテン”の向こう側で、よもやそれを観れるとは思わなかった。
さて、当日は恐ろしいほどの緊張感で芝居がすすむ。終演になるや、観客は全員立ち上がって出演者に拍手を送ったのだが、、急に誰からともなく、後ろ向きになり2階の全面に坐っていたブレヒトに敬意の拍手を表する。それにブレヒトが軽く手を挙げて応えたのだが、驚いたことに、それから全員がさっと足早にホールに向い、そこで各々の仲間同志が騒然と討論をはじめ合ったのだ。それはお祭りやスポーツ競技などの後で起こる騒音に似たもので、観劇の後でこんな光景は初めてだった。私は呆然としてひとりその中に佇んでいた。私は芝居の内容にはあまり驚きを感じなかった。ただ、戸惑いながら、どこかで見たような、奇異な思いがしていた。これがブレヒトのいう「異化効果」なのか、「観客に思考を求める教育劇」なのか?ブレヒトは京劇に接したことがあると聞いていたが、これは偶然なのか、50%歌舞伎なのだ。
ジャン・ヴィラールの「テアトル ポピュレール」と、ベルナール・ドルト、ロラン・バルトへの影響力が大きかったが、これはことばの芝居ではない。歌舞伎の脚本と同じように、ことば以外のものをつくり上げる演技術が問題なのだ。ベンヤミンは「ブレヒトの演劇はジェスチャーである」と言った。ということは、「時代と階級によって、その人間のジェスチャーは違う」ということだ。そいう意味では、立派にマルクス主義の演劇だった。ブレヒトは、その2年後の1956年8月に死亡している。
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