Saturday, September 22, 2007

ブレヒトからハイナー・ミュラーへ

セリフと身体を分離させたブレヒト演劇。多くの“ブレヒチアン”たちに宿題を残したまま、ブレヒト本人はこの世を去る。10年後の1964年、ジャック・ラングの国際演劇祭はポーランドのイエジー・グロトフスキイの「持たざる演劇」を招聘する。'71年には同じポーランドからタディオス・カントール、アメリカからロバート・ウィルソン、日本からは寺山修司を招待する。この頃から演劇の身体性は言語から独立して歩きはじめ、'80年代半ばまで、対立するセリフと身体は葛藤を演じつづけるのである。それに、イオネスコの“アンチ テアトル”とベケットの演劇。アントナン・アルトーの演劇論の再認識が拍車をかける。

日本でも、それと連結する現象が '67年から起こっている。“全学連”と舞踏の動きに触発された寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」と太田省吾の「転形劇場」。それに鈴木忠志の「早稲田小劇場」と佐藤信の「黒テント」の創造活動である。

さて、'68年のパリの“五月革命”の嵐に煽られて、アヴィニヨン・フェスティバルを先頭に世界各地に乱立してフェスティバルが開かれるのだが、セリフを見失い、迷子探しの演劇がひとつの山を越えて、衝撃的なかたちで現れたのはハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシン』という脚本であった。
計らずも、ハイナー・ミュラーは東ベルリンのベルリーナ アンサンブルのブレヒトの後継者だったのは皮肉なことだ。演劇の再生を待ち望んでいた批評家の西堂行人は早速、「ハイナー・ミュラー研究会」をつくり、演劇運動の核とする。だが、従来の演劇の枠に治まることを敢えて承知しない豊島重之は「絶対演劇」を宣言する。一方、清水信臣の「解体社」は身体的なグロトフスキイ、カントール、ヤン・ファーブルの線をストイックに守りつづける。

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