Thursday, September 13, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(3)

新しいアートを創り出す人、文化をプロモートする創造的なプロデュースの役割を演ずる人を、pro-cre-art(プロクレアート)ともいう。1968年以降、世界中に広まった演劇、ダンスを中心にした先鋭的なフェスティバルの先鞭を振ったのは、ナンシー国際演劇祭を創立、実行したジャック・ラングだった。彼はこの功績によって、フランス文化行政の文化相になるのだが、このミッテラン大統領との名コンビは、かってのド・ゴール大統領とアンドレ・マルロー文化相に相似したものだった。

国の文化を興隆させるためには、他国の文化との交流が必要だ。その役を担うのはコーディネーターである。フェスティバルの企画の芸術面をディレクトするのがアート・ディレクターで、経営面を担当するのがマネージメント・ディレクターである。この両輪の才能があってはじめて企画が成功する。
塩谷敬はジャック・ラングの信頼によってコーディネーターの役を務めた。ただし、彼の場合は2国間の文化交流の事務的な橋渡しではなく、下記のように身を労しての貢献であった。

ジャック・ラングがナンンシーのフェスティバルと平行して、1972年からパリの国立シャイヨー宮劇場の総支配人に任命された後、ラングに“文楽”のヨーロッパ公演の解説を依頼されてから、塩谷の連続的な文化交流の仕事がはじまる。
それは以下のような内容のものだった。宝塚歌劇パリ公演の舞台監督/能楽パリ公演の舞台通訳/雅楽パリ公演の舞台通訳/日本舞踊の花柳徳兵衛の舞台通訳/東山魁夷の唐招提寺のふすま絵展示の仕事/笈田・ヨシのワークショップ「日本の声と動き」の講師兼通訳、などである。
私の周辺でいうと、モレキュラー シアターの出発点となった豊島和子の「アテルイ」パリ公演のコーディネート/ヤン・ファーブルの「劇的狂気の力」日本公演の際のミッション/シュウ ウエムラのメイクショーとパフォーマンス公演の時のカルダン劇場との交渉も、彼の仕事であった。

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