「部屋」の公演の頃の大野さんは、とにかく自分を問いつめつづけていた。モダンダンス界から舞踏へ移行した1959年から舞踏の経験を経て、この1966年になって初めて自分の踊りを作ろうとしていたのだろうか。
私が大野さんの共立講堂でのデビュー当時の姿は、音楽新聞の舞踊欄に掲載された写真によって知っていた。当時から大野さんは帽子が好きだったようだ。コスチュームはモダンな風で、妙に腕の長い人だな、と思った。
じっさいに大野さんを舞台の上で観たのは、1959年4月、第一生命ホールでの「大野一雄モダン・ダンス公演」でのヘミングウェイ原作による「老人と海」だった。すでに私の下でマイムとクラシックバレエを学んでいた慶人が出演していたからだ。ところがこの翌月の5月に慶人が土方巽に誘われて、同じ第一生命ホールで第6回新人舞踊公演の提出作品として「禁色」が演じられる。
これが後の舞踏の出発点となったのだが、大野さんが津田信敏、ついで土方舞踏の動きに参加することになるのは、同じ'59年10月の現代舞踊の合同公演(文京ホール)での萩原朔太郎原作による「月に吠える」以後のことである。大野さんはこの作品に出演していたが、この作品を契機にして批評家を混じえての津田信敏派と江口隆哉派の分裂が起こり、大野さんは江口門下から分離して津田信敏と行動を共にし、やがて土方の舞踏の動きに参加することになる。
大野さんが真にモダンダンスの殻から抜け出したのは1960年7月の土方巽主催「ダンス・エクスペリエンスの会」(第一生命ホール)のジュネの「ディヴィーヌ抄」に出演してからである。その後大野さんは土方の演出の下で、舞踏の三羽ガラスの大野慶人、笠井叡、石井満隆が出揃ったころは、先輩格として特異なタンゴをソロで踊ってファンを集めていた。
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