Saturday, October 10, 2015

10月公演のために


7 星野さんに

 そもそも、この通信は、これまで数年に亘って、実験的に明大前のキッド・アイラック・ホールで「アートは症状である」というテーマで、空間演出の大串孝二と映像作家の加藤英弘と舞踊振付の及川の3人グループとその度に出演依頼されたダンサーによって行われてきたものですが、今度その最終回として場所は同じ明大前のキッドですが、新しく開設された5階ホールでこの11月の23日(金)、24日(土)、25日(日)に5回の連続公演を行うことになっているのですが、それに当たって公演作品の内容と、実現すための準備と、周辺の後援者のために書かれているものです。

 というのは、このグループの実験公演の目的の「アートは症状である」は、フロイドを継ぐ精神分析家のジャック・ラカンの言葉なのですが、それをわれわれは東洋に伝統的な老・荘の“タオ”とか、大乗の“中観”、“唯識”とか、あるいは禅宗の道元の説く“心身脱落”や眞言密教の空海がひらく“ダラニ”の世界などから、西洋と東洋とを対比させながら、芸術の奥に潜む無意識の世界を求め、量子力学物がやっているように、老子の言う「見えない筋道」のほんとうの意味を探し出そうとしていたような気がするのです。

 そして、今になって気付いたことは、このジャック・ラカンの前にレヴィ・ストロースの構造主義の「野生の思考」の大きな仕事があったということと、また、意外に見逃していたのは同じフロイドの弟子であるユングの「タイプ論」と「象徴研究」がより密接したところで東洋の世界に迫っていたのではないかということです。

 さらに、アルトーの晩期に俳優術のために書かれた小論文『俳優を狂気にさせる』からドゥルーズ・ガタリが 、その手法を “器官な身体” として「政治社会学」に利用したのですが、この“器官”を“機能”に転換する術に気がつけば、それは「政治社会学」だけでなく「文化社会学」としても、例えば、社会システムの“機能”を中心に思い切り働かした同じ時代のニコラス・ルーマンの「社会システム論」もアルトーが望んだ俳優術にも通じるものがあるのです。
 
 私がここで言いたいのは、中国の三大気功の一つである老子の教えを受け継ぐ武当龍門派が、又それと同等に日本の歌舞伎役者の演技術と人形浄瑠璃の義太夫の発声法が、アルトーが望む「俳優術」と同様な目的を持つものであり、この身体の“器官”を固定した“機能”としてでなく使おうとしているのです。
 つまり、ドゥルーズ/ガタリも、ニコラス・ルーマンもおなじポスト・モダンの傾向として「社会学」を政治面と経済面においてアルトーの演技論の器官の位置と効果を自由に変えて使うという意味の “機能中心主義” をドゥルーズ/ガタリが「器官なき身体」としたのが、解釈上の誤解を生むことになるのですが、それは「器官を無くする」のではないのです。固定した役割りを無くするという、いわば徹底した「構造改革」を目差せ、ということでしょう。

 身体の五臟というのは太陽圏の気を上から受けて、陰陽の2つ、これは量子力学の電子と陽子に当たるようなものですが、それを五臟の5つ中心がそれぞれの役割りをもって陰陽の数を夫々違えてその役割りを持っているわけで、それは個体の生命の働きを分担しているだけで、アルトーの俳優術はそれを無くせよ、と言っているのでなく、それを強引に体内に位置を空間的に動かし、また細胞のエネルギーを活性化させ、からだを包む皮膚面で外界と対峙させようとしているので、「器官を無くすること」が直接の目的ではないわけです。
 また、ついで申しますと、五臟の器官を持っているのは上体だけで、それは太陽の光と水、またこの作品では“智慧”と“慈悲”とに関係し、下半身は地球の大地と月のリズムと関係するので上体は5と10のリズムで、下半身は6と12です。そしてそれは脚の裏から六腑に通じるものです。

 それでは頭部は何の意味があるのか、と問われれば、それは、この10月公演の第2場のテーマで、前述のレヴィ・ストロースの構造主義の「野生の思考」に、また直接的には空海の「人間の識と地・水・火・風の “五大” との関係」を問題にしているのですが、それは西洋文明が知性と近代科学によって文明を切り開く以前の、知よりも色彩、匂い、味、音、感触など、対象との感覚値を主体にした論理で生活しており、つまり未開人の頭部以前の上体と自然との関わりが土台になっていることこそが本来の人間の生き方である、ということです。

 しかし、第2場の問題は、そういうことでだいたいの方向づけは付いたのですが、これからは第1場の問題です。これは2つの大きな問題を含んでいます。
 一つは「システム」という問題を含んで、ウェーバーの“行為”、と「理解社会学」の“理解”という意味、それに「社会学」はウェーバーからパーソンズに継がれたのですが、その違いはどこにあるのか。またパーソンズの「社会学」が目的とする「構造・機能」の順序を逆にして「機能・構造」とした、その弟子に当たるニコラス.ルーマンの「社会システム論」の狙いはいったい何処にあるのか。
 
 もう一つは、このニコラス・ルーマンと平行して80年代のポストモダンの
風潮を飾った音楽の“ミニマリズム”というものがあり、その後期にベルギーで起った“クレパスクル(夕暮れ)”という後期ミニマリズムのグループの中のウィン・メルテンは当時非常に人気があり、このポスト・モダンの様相を色濃く語っているものです。
 このポスト・モダンの構造を解釈するには、一方でそのニコラス・ルーマンの“機能”の「根源」とも言うべき「自己組織化」をそれこそが「自省」してみざるを得ないだろうし、それと音楽の動きの流れと、からだが持つ本来的な動きとは違うということを基本に、このポストモダンの代表として、このミニマリズムのウィン・メルテンの曲を選んだのです。
 そして、何よりも大切なことは、ミトコンドリアが住まう細胞と酸素との関係、それに繋がる自律神経とそしてリンパの作用を対象とした表現がその曲を覆うことです。このあたりでニコラス・ルーマンの「自己組織化のシステムが漏らしている部分を表現できるのではないか、という希望があるのです。

 まだ,重要なものが残っています。そもそも音楽にしろ舞踊にしろ“動き”を主体としますが、それに対して空間的に動かない美術の“認知”とそれはどういう関係にあるのかということです。
 その感覚的な関係から描く構造こそが、これまでの知を土台とした“振り付け”や“空間構成”から脱することができる筈だと思っているのですが、果たしてそれが巧くゆくのでしょうか。

 これまでに出された一般通信は、大串さんに計4通、加藤さんに1通、北山さんに2通、そしこの星野さんにが1通。そして後は宮田さんに など3通で締めくくります。それに演技者に向っての特別通信の相良さんに をこれまで3通送りましたが、最後に,山下さんに を送って、それで締めくくりたいと思っています。

 キッドでのこの10月公演には「アートは症状である」のこれまでの3人に加えて、「アルトー館」の全員が出演し、合同公演のかたちとなっています。
 それは、われわれの次ぎのジェネレーションへのバトンタッチの意味も含まれていますが、周りの後援者を含めて、余力ある者は、再びあのポストモダンの先端を切ったヒノエマタの芸術運動のように、次ぎの新しい時代づくりのために若いアーティストたちを抱えて、堅実な運動を再生して頂きたい願いがあるからです。

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