Friday, October 09, 2015

10月公演のために


北山さんに 2)
 
  2) 無惨から、空(くう)と智慧が生じ、ついで、悲しみが起こって来る

知識をいくら研ぎすましても智慧には至らない。智慧は特別のもので、それを心の内に感じるまでには、相当の手段と修行が必要なのだ。仏教語に波羅密という言葉がある。波羅(ハラ)は梵語で“彼岸”という意味で、“密”は「旨し」という意味で、両方合わせて西方の阿弥陀如来が統治する極楽浄土のことを指す。
その彼岸の極楽浄土に渡るためには菩薩は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種の修行である「六波羅密」を努め、それが果たされた時に自利、利他の功徳を知り、そこで初めて到彼岸が出来ることになっている。

また、この最終段階の修行である智慧を心の中に見い出してから悟りで心が開かれる状態を“般若(はんにゃ)”といい、そこで自分の心の中にも“仏性”があることに気づくのが“禅宗”の修行法で、禅の場合わざわざ彼岸に行く必要がなく、仏は自分の心の中あるのだ。浄土の彼岸を求めて修行するのが浄土宗である。
しかし、一概に浄土教と言っても、夫々に安易に彼岸に至る道を考えていて、例えば六波羅密寺の空也上人の場合は踊躍鐘鼓によって、三千院の良忍は音律正しい念仏によって、恵心僧都の源信は来迎阿弥陀の絵図によって彼岸の功徳をおしえたりしている。そして最終的には法然上人が、唐の善導大師の著『観経疏』の「口称名号」の条で、易行の“称名念仏”の手法を豁然と納得し、庶民ためにこの「南無阿弥陀仏」を一心に称する道を選び、そのため比叡の本山から迫害を受けることになるのです。と、いうのが比叡の本山である天台宗は、釈迦以来の布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の「六波羅密」の修行を、「戒・定・慧」として大切に守るべき道としているので、このような庶民のために安易な道で教えることを許さない厳しい立場にあるのです。

京都の「八坂神社」の隣りに位置する広大な知恩院は、この一向念仏宗の本山で、ここでは円光大使法然は釈迦如来や阿弥陀如来よりも崇拝されています。
ご存知のように、この法然の弟子であった親鸞の本山は浄土真宗の本願寺ですが、それが徳川幕府の計らいで東西に二分され、さらに比叡山延暦寺に対しては江戸の
上野に東叡山寛永寺を創ってこちらの力も二分している。しかし更に恐ろしいことは、先に話した法然源空の本山知恩院の広大な寺院は、その敷地の広大さは兵舎としての包容力を持ち、場合によっては城郭に転用できるようにつくり、また登り坂の階段や、城内構造も、敵が乱入した場合の対策が十分に考じられていて、それは徳川家の宮中への圧力ではないか考えられるのです。
上のことは、古文書学者でもある歴史学者の中村直勝氏から知ったことで、古文書を自分で紐解くことから得られた知識をもとに、そこで “ひらめきの“智慧”が必要になって来るわけです。それによって歴史が俄然明るく見えてくる。

南部範子さんに会ったのは偶然でした。しかも赤羽のアルトー館の近くなのです。そこは何時も地下鉄に向う通り道で、小さな古着屋だったのです。その店にはごちゃごちゃ小物も混じり込んで、沢山の衣類など委託品が積み上げられていた。それらは、ほとんど使い古したがらくたなのですが、それを勝手に掻き回しているうちに突然高価なきらびやかな新品同様なものが掘りだ出され、それがそれほど高値でないから掘り出し物なので、この宝探しの店のようなところが面白くて時々その店に入っては、日本の派手な着物や帯、またイタリー製の出来のいい陶器等を購入したりして馴染んでいました。
私はこの店を面白がっていると同時にこの店の女主人のどこかで見たような顔がいつも気になっていたのです。

ある日、思い切って彼女に「貴方のお名前は何って言うのですか?」と問うてみた。彼女はそれに対して何の衒いもなく「わたし南部明美です!」と応えたのだが、その瞬間、私の疑問が溶け、すかさず「嘘をつけ!貴方は盛岡の南部でしょう。貴方のお兄さんに当たるだろう方を私は知っているが、貴方の顔とそっくりなのです。貴方のお名前は明美じゃない! 隠したって分りますよ。」彼女のその時の参った! という笑顔を今思い出しても可笑しくなる。

南部さんのお名前は範子(のりこ)でした。道理で店の入り口の上には「範」と書かれた看板がある。2人の間が打ち解けたところで、いろいろ聞いてみると、彼女はお茶の水の女子大を出て、そのまま数学を大学で教えていたのだが、校内の気風に合わず、そこを抜け出してデザインの仕事をしており、この委託の古着店の売り上げは、今住んでいる下町の近所の公園の野良猫たちを養ったり、動物保護協会に寄付しているという。なるほど奥にはデザインのための大きな机がある。
野良猫をアパートで飼いたいけど,新聞で間取りが良いだけで移ったのだが、猫を飼ってはいけない、と言われた。周りの近所の人とも話しが合わないし、実は困っている。「それまでどこに住んでいたのですか?」と聞いたら、白銀です。白銀族がいきなり下町に移って合う筈がない。
そこで、初めて気が付いた。店の宝さがしの商品の持ち主は白銀族の持ち物だったのだ。しかし当人は白銀でどんな生活をしていたかは見当がつかない。趣味はヴァイオリンだと聴くと、それなりの暮らしをしていたのでしょう。

なぜ、そんなことまで推測するのか。それは明治の維新戦争でいちばん酷い目に会わされたのは会津の松平家と彼女の南部家だったからです。
鳥羽・伏見の戦いの後、帰藩していた会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)に対し、明治新政府は他の東北の諸藩に向って、会津討伐の命を下した。また、盛岡・秋田・津軽藩には、庄内藩を討伐する事を命じた。しかし東北の諸藩はその命令に服することなく、会津・庄内藩の助命を願い出るとともに政府軍の横暴な態度を批難し、新潟の高岡藩,新発田藩と一緒に奥羽越列藩同盟を結成し抵抗することに決めたのだった。だが、結局は新政府軍に攻められ、会津が落城しても最後まで戦い続けたのが盛岡藩だった。
しかし、そのため新政府軍の盛岡藩に対する条件は、会津藩と同じく過酷で、70万両の献金を政府に支払うことを課せられたのです。しかし、南部藩としては財政的にその支払いが不可能なため、「版籍奉還」以前に藩のすべての財産を投じる厳しい条件で許されたのです。

その「版籍奉還」というのは、明治2年6月17日に、旧藩主たちは知藩事として残り、従来の石高の10分の1を俸禄として受けることになっていたのです。そして、大名達は土地と人民を天皇に返却すること、だったのです。しかし、これはどういうことなのだ? 「大名達は土地と人民を天皇に返却すること」とは?
土地と人民を天皇に返すという言葉の意味は容易ならぬ内容です。われわれの命は天皇のものなのか? 明治新政府は天皇家を祀り上げ、欺瞞によってその錦の美旗を掲げることで自分たちの権力を得たのです。その欺瞞によって国民は第二次大戦の終了時まで天皇のために命を捧げて来たのだ。

南部範子さんは「私たちはすべての財産を失いました。と語った時の柔らかな微笑みと悲しみの色は、その奥に空漠と智慧のきらめきが見えた。その時あの盛岡のあの広大城跡と、南部家の下屋敷だった有栖川宮公園がイメージとして浮かんだ。と、同時にその公園に隣接した南部町の名の記憶が妙になまなましい傷跡のように訴えるのです。

南部さんはその後、体調を崩し、赤羽の店を払って、自宅でデザインの仕事だけをすることになったのですが、それでも彼女は時々アルトー館に姿を見せては猫の話をし、時には電話で互いの様子を伺うのです。

先日、私は電話をし、南部さんに気軽に聞いてみたことがある。「ポストモダンの時代にルーマンの「社会システム論」というのがありましたが、その後、大澤眞幸と宮台真司という2人の社会学者が、G・スペンサー=ブラウンという数学者の著書である『形式の法則』というのを訳して、評判になっていましたが、南部さんはこのように数学が社会学に使用されることをどう思いますか」と質問しました。

南部さんは、私のこの不躾な質問に対して、しばらくの沈黙の後、独りごとのように次ぎのように語ったのです。「 -------- あたまの中の数学と実際の事実とは違いますし、------それに数学といっても、いろいろな巣学がありますからね ---------  」それを聞いた時、私の頭の中にアラン・チューリングやジョン・ナッシュの名が過ったが、私は思い返し、直ぐ「そうでしょうね。」と応えて,その問題から直ぐ次の話しに移ったのですが、物事を曖昧に応えないのが彼女の特徴で、今の政治を話題にする時でも落ち着いた声で自分の考えを述べるのですが、とつぜん時代を越えて、かって南部藩の家老であった、立憲政友会の総裁で、平民・首相を名乗った反骨「原 敬」のことを例に出した時に、われわれが「はら けい」とぞんざいに言うのとは違って、丁寧に「はら たかし さん」と言われたのが印象的でした。
 

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