Saturday, October 10, 2015

10月公演のために


8 宮田さんに

 南米チりのマトゥラーナとヴァレラという2人の神経生理学者の師弟が、生物は「自己組織化(オートポイエーシス)」の生命的エネルギーシステムを持っている、ということを証明したのですが、それを社会学に利用して1982年に『社会システム論』として発表したのはニコラス・ルーマンという社会学者でした。
 
 ルーマンはそれによってハーバード大学で学んでいた師のパーソンズの「構造/機能」をテーマにした学説を、この「自己組織化(オートポイエーシス)」を取り入れることによって“機能”の働きをより強力にし、ポスとモダンの時代の要求に応えることを望み、そのため機能を構造の前面に出して「機能/構造」とし、ドゥルーズ/ガタリがアントナン・アルトーを利用して「器官なき身体」を称したように、この「自己組織化(オートポイエーシス)」をキー概念として華やかに80年代の舞台に踊り出たのです

 それは「器官=機能」の意味から出発していることから、このルーマンの「自己組織化(オートポイエーシス)」はドゥルーズ/ガタリのアルトーからの「器官なき身体」とは同じ系列のようにも感じれれるのですが、実際には、神経生理学者のマトゥラーナとヴァレラは自分たちが発見したこの「自己組織化(オートポイエーシス)」をルーマンが違う世界の社会学に利用することに必ずしも賛成ではなかったようで、また一方のドゥルーズ/ガタリの「器官なき身体」にしても、アルトーがまだ存命なら、彼の「演技術」からのこの誇大解釈には、たぶん肯んじなかったことでしょう。
 
 それはそうと、まず本題の「自己組織化(オートポイエーシス)」に話しを戻すと、これは、そもそもが対象の複雑系のものを単純化するための機械的な働きをするシステムとして使われたもので、社会を総合的なものとして丸ごと関連的に捉えてきたそれまでのウェーバーやパーソンズとはちっがて、対象を分化して捉え、それぞれの分野をこの「自己組織化(オートポイエーシス)」の機械にかけて計算結果を得ようとするものなのです。従ってその分化された各分野の結果を総合して観察することも行われたのですが、ただ人間が関わる社会とか、世界とかは対象として複雑ではあるが分化することによってその結果を得ることができるわけですが、自然とか宇宙という対象物になるとあまりにも複雑過ぎてこの機械は通用できないし、環境問題となると国家間の事情の差によって一向に共同作業が進まないのです。

 ルーマンは自然に対して、また地球の温暖化などに関して関心がない訳でなく、それらのことについて意見も言ったし、書物にも記してもいたのですが、結局は人間社会に対する関心と、複雑性の縮減というこのシステムの機能にいちばん関心を向けていたということです。そこが東洋人と西洋人との差、仏教とキリスト経との差なのかもしれません。そして,永い歴史の上で自然を対象にそれを打ち負かして文化を作ってきた者と自然と親しむことによって感性を磨いてきた民族との違いがあるのでしょう。

 でも、そういうことを言っている時代はすでに去っており、またこの「自己組織化(オートポイエーシス)」を繰り返すことによって外部のものを吸収し、新たな自己反省を元に新しい近代に入ろうとする社会学の「再帰的近代化の夢」は、現実のグローバル化の波によって近代の土台である国家形態が次第に崩れて行っている現段階では、すでに失われ初めているのではないでしょうか。

 社会学という学問は、われわれアーティストにとっていちばん深い関係にあるような気がしていましたが、いつの頃からか知らぬ間に「知」と「知識」がもてはやされ、「知識社会学」という学問まで出来て随分頭を鍛えられたというより、無駄に悩まされた永い時間があったのですが、それに付随して科学万能の時代が当然のように振る舞った果てに、その反応の悪影響と限界を感じさせる崩れが見え始めてきた昨今、新たに埋もれていた“智慧”なるものに関心が呼び起こされ、また今まで軽蔑されていた感のあった“幻想”なるものが、深層から新たな解釈で引き上げられはじめているということはアーティストにとって悦ばしいことです。
 そしてこの“智慧”と“幻想”を、はるか彼方からわれわれに問題提起してくれたのは空海だったのです。

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