Tuesday, October 13, 2015

10月公演のために

特別通信 相良さんに



 ゲーテの樹木の「根源」としての「葉」と、
   ヴァレラとルーマンの「自己組織化」との違い

「根源」というもの、それを元にした「自己組織化」というものは、老子が語る以下のようなものである筈。混沌である「複雑性」は、その広がりをもつ課程で、重要な道筋が元の[根源」と繋がりを持っている筈なのだ。
その自然的な道を外して、自分たちの「利」の目的のために、重要な対象素材をねじ曲げ、あるいは重要な要素をシステム環境から漏らして勝手に創り上げるとどういう結果を生むことになるか。それは、目前に見る世界の現況と、危ぶまれる地球環境なのだ。

『老子』には、次ぎのようなことばが書かれている(福永光司訳)。

「混沌として一つなったエトヴァスが、
天地開闢(かいびゃく)以前から存在していた。
それは、ひっそりとして声なく、ぼんやりとして形もなく、
何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、
万象にあまねく現われて息(や)むときがない。
それは、この世界を生み出す大いなる母ともいえようが、
わたしには彼女の名前すら分からないのだ。
仮に呼び名を道としておこう。無理に名前をつければ大(だい)とまで呼ぼうか。
この大なるものは大なるが故に流れ動き、
流れ動けば遠く遥かなひろがりをもち、
遠く遥かなひろがりをもてば、また、もとの根源に立ち返る。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。」

この孔子あるいは荘子の言葉を現代の人間は旧い、科学の洗礼を受けていない時代の、古代人の言うことばだと捉えるのだろうか?
時代が進むに連れて人類が進歩して来た、と考えることは幼稚なのである。
ひらめきを持った偉大な人物発生した時代というのは、永い人間の歴史のなかでほんの数える時代しかない、と言っていいほどである。
その数えるほどの時代の数えるほどに数少ない人間のお蔭でわれわれの科学も文化も開かれて来たのだ。

“スマホ”で知識が開かれた、と思うのは間違いで、それは、これまで発見された上辺の知識が簡易に手早く手に入るようになった、というだけのことで、苦にして手に入れた自分だけが取得した知識ではない。
歴史的知識にしても他人が前に集積された書物から得た知識と、苦労して古文書を発見し、その文意をじぶんで読み解き、ひらめきによって歴史の筋道を解釈できた、例えば中村直勝氏のような方が本当の歴史家だし、また同じ歴史に当たってもあらゆる面から奈良と平安の貴族と庶民の生活を調べ、今ではすでに忘れられている道教文化の侵入度を発掘された福永光司氏の功績とか、仏教信仰の原点として、これまで民衆の間で信じ、広められてきた足跡を辿った山折哲雄氏ような方の、本当の日本文化の“根源”というものを肌で感じ取っている方を大切にしたいものだ。


ここで、われわれが現在立合っている10月公演の第2部について考えて見よう。

根源的なものを中心に、対象とする「複雑系」を数式的に簡易化して結果を観測できる筈の「社会システム理論」に対して、空海は身体のみでなく、人間の意識と自然環境と宇宙の万物との関係をも包み込んだ、この混合的な複雑性そのものを抱え込む「自己と外界との関係」を、ひとつの「根源的な関係」として、識と地・水・火・風・空の五大とを組み合わせて「六大」としているのです。
これこそが空海こそが創り得た、この世の「空なるもの」で混沌とした[複雑系」の宇宙存在の、「根源的なもの」を中心にした「自己組織化」の方式なのだ、と思いたいのです。しかし、その中には数学的な数式は含まれていない。代わりに生命的な動力と、それをベースにした広がりのある「イマージネーション、あるいは「幻想」の動力が控えているのです。

現象学の開祖であるドイツのフッサールの現象学と、同じように現象学的な出発から科学と日常生活を対象にして来たフランスの科学哲学者バシュラールとでは、バシュラールが対象に対して想像と詩的イメージ、あるいは幻想的なものまで働かせるという違いが、バシュラールがその点で詩人により近く、しかし元は科学者であるだけに智慧と構造的な解釈で、老子、荘子のような道筋を発見する方法を選んでいるのです。
この方法は知識だけでは捉えることの出来ない道筋を、それは「空(くう)」の中に埋もれて見えない存在なのですが、量子力学者達がそこにあるものを信じて追求し、最後には思わぬものを発掘するようなものです。

それと同じようでいて、これは老荘のダオではなくて、空海の建てた宇宙の根源図なのですが、この識、すなわち識別と地・水・火・風・空の五大の根源的なものとの関わりから、六大構図の解釈の上に現代世界の情況が映し出されるとするなら、それを展開することによってわれわれの意図するものが達成されることになる筈なのです。

空海は「般若心経」以来の智慧を根底にして、宇宙と人間との全的関係を、空海が持つ哲学的直観によって透視していたのでしょう。それは知識を土台とするシステムによる簡易化とは違って、その複雑性の中に正しい筋道を通ることによって大事なものが漏れない方法なのです。
凝縮する方法、拡大する筋道、1点に集結すべきもの、横に配列すべきもの、周期的に現れるもの、すべては直観によってそれらのものが構図化され配置されるのです。

このようにして、心臓から頭部が、鰓から腕と手が、骨盤から脚と膝と足が生じる以前の、身体の根源的な要素と、地、水,火、風、空の「五大」の自然的素材とが空想的な関わりを演じること。
それはちょうどバシュラールの著書[火の精神分析」「水と夢」「空と夢」「大地と意志の夢想」「大地と休息の夢想」「空間の詩学」「夢想の詩学」「蝋燭の焔」「火の詩学」に描かれていたようなことが表出されることを望んでもいるのです。
バシュラールにとって想像されたイメージとは、常識的な想像力とは違って、それを否曲する能力でもあり、イメージの変化や、思いがけない出会いが生じる種類のものでもあるのです。
だが、バッシュラールは何故「風」については考えを提供しなかったのだろうか。しかし、禅宗の六祖恵能は「風」に対しては名言を残している。「風が動くのではない、自分が動いているのだ」と。

これらの事を演じるためには、からだのどこで、演じたらいいのだろうか。身体が演じる重要な技術要素は、表立っては呼吸と筋肉の使い方にあるのは確かだが、躰の内部の表現としては、天向っては五臟の「五」の働きが、地のエネルギーとしては、関係する六腑の「六」の働きが、それぞれ「横に配列するもの」の特性を呼びこんで、空想的次元に運ばれるのだが、それはただの空想でなく、「実」になるものを幻想的に呼び起すことによって、「真相」に向って可能性が開かれる筈なのです。

他律神経が外に向うときは運動神経で,内に向う時は知覚神経です。
そして自律神経は内臓と細胞と腺とに結びついているのだが、その連結した部分を興奮させる方を交感神経、安定させる方を副交感神経という。
そしてこの2つの自律神経を支配しているのが “白血球”でることが、西洋医学の「免疫学」で最近証明されたことです。

身体を上・中・下の三つに分けて、その各々の中心を“三焦(三つのセンター)”と称し、それが全身でなく、前述したような躯幹だけに凝縮したばあいも、同様に“三焦”と称し、同じように「神・気・精」の根源的な意味を持たせている。

そしてこの“白血球”の働きの場は、この“気”が支配する芸術の感覚,感情の情緒的な変化に及ぶ。全身の身体内部に気の働きが化学的変化をつくって表現に及ぶもので、そこでホルモンやリンパの働きが重要になってくるのです。ホルモンというと視床下部の脳下錐体や甲状腺ホルモン、副腎ホルモンなどが推測されるでしょうが、血管内の白血球と体表に帯をなしているリンパ腺と同質のものであることを、ここで先ず確認する必要があります。

白血球には、マクロファージ、顆粒球、リンパ球の三種類があります。無脊椎動物の時代までは、マクロファージだけだったのですが、その後機能が分化して顆粒とリンパ球に分化し、そのリンパ球が血管から体表に出るに及んで、免疫力の他に、東洋医学の“気”の分野と筋肉との間を取り持つはたらきをしていることに最近気付いたのですが、他にも感情の表出等の働きにも微妙な役割りを演じているように見受けられます。

38億年前、海中から陸に向った最初の生物は、当時の陸上の無酸素状態の中では体内の糖をエネルギに変換して、分裂して生きていた。この糖のグルタミンをエネルギーに変え,分裂して生きていた生物を「解糖系の生物」という。
その後、地球上に植物が発生して酸素が空中に混入してから、その酸素を使ってエネルギーを生成するミトコンドリアという、これも分裂して生きる「ミトコンドリア系の生物」も出来たのです。
そして人間のばあいのは、この他生物である微細な「ミトコンドリア系の生物」を自分の細胞の中に寄生させ、この「解糖系」と「ミトコンドリア系」の2つの細胞のエネルギーで生活して行くわけなのです。

そして、外部生活空間では、空気中にある炭酸ガスを使って光合成して糖をつくり老廃物として酸素を放出する植物とはたいへん親睦な間柄となって、植物が放出した酸素を鼻から吸って人間は生活しているのです。

その植物の“根源”は「葉」で、植物は秋になって葉が枯れて枝になり、春になると枝先に芽が出て花が咲き、そして花が散って「葉」が残るのです。これが「自己組織化」の1課程で、それを毎年繰り返しながら成長し、周りの自然環境のすべての生き物に幸せを与え、生活を安楽にし、美を感じさせるのです。

第2部のこれらとは違って、第1部のウィンメルテンの音に対する解釈はこれから始まります。


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