特別通信 相良さんに 1
この作品の1番の問題は,西洋が環境を対象とする時、身体中心を脱しないで、他人とか組織グループだとか人間だけを対象にし、その他には人間が使う“もの”だけを対象にして、自然は対象にしていないことです。そして更に視覚範囲を拡げた場合、動物、植物、や自然物など、すべてを抱え込んだ宇宙を対象にするのではなく、人間社会が織りなしている「世界」を差しているだけなのです。
ここに東洋と西洋の根本的な差がある、ということを自覚した上でこの作品に当たってもらいたいです。
ですから、倫理学から始めた筈の「富国論」が資本主義のためのものと捉えられ、資本主義に対抗して書かれたマルクスの「資本論」を教本とした共産主義のメンバーがいざ国家を運営する段階に至ったらば、賄賂することになるのです。
ポストモダンにおいても、この複雑な宇宙世界のもとで生活している人間社会をシステム化するに当たって、この「複雑系」の宇宙世界を、人間が外部としている生活している自然を外して人間社会として単純化し、生物の神経生理学で発見した「自己組織化」の法則を利用して人間と人間が使用する「もの」のみに向ったのですが、この「自己組織化」の単純化で漏れたものを組織化を反復することによって外部から拾いなおし、最後的段階で回帰的に反省することになっているのですが、人間そのものと、利益に関係する「もの」以外の反省、自然的ないちばん恩恵を被っている大事な部分を外して、それに対しては反省していないのです。
そこで「荘子」はこのような事をどういうように考えているのかと、調べてみたらば、次ぎのような私と同じようなことを福永光司氏が、その著書『荘子』に書かれているのに驚き、私のこの構成演出が今のこの時代に正しい主張であり、今後のわれわれ芸術家は、この道に率先して向かい、ポストモダンの次ぎの時代を背負って、ヴァレラのヨーロッパへの忠言を越えていかなくてはいけないのです。
このように、師のマトゥラーナとヴァレラが神経生理学の研究から生命の発展法則として描いた「自己組織化 オートポイエーシス」を社会の発展的システム理論とし、ポスト モダンの根幹となしたニコラス ルーマンの法則がなぜ21世紀になってリスク社会を生んだのか。そこをわれわれは東洋の側から突かないといけないのです。
それは環境と言っていながら自然環境を無視し、利益に関係のある“もの”だけを対象にしたからです。それと光の智慧と、智慧から起こる慈悲に至らず、知識と科学に対して、あまりにも自信と期待を持ち過ぎたため、最終的には自分の後始末が出来ぬまま、国民を騙しこむような気風がそれこそ地球上にグローバルに広がり、人類同志の信頼感が薄くなり世界は裏切りと対立抗争の連続で、それこそ荘子が生きた中国の戦国時代と同じ状態なのです。その意味で次ぎの荘子についての文は、直接われわれが当面する作品の内容に関係しているように思われます。
その福永光司氏の文を以下に掲示します。
「近代ヨーロッパの文化を特徴づけるものが合理主義であり、アジア地域の文化が前近代の名でよばれるとき、中国古代の思想文化はいうまでもなく最も非合理性に満ちた歴史的現実を基盤として成立していることになる。事実、荘子の生きたのは凶暴な権力が横行し、迷妄と死と悲惨がうずまいて最も非合理的な歴史的な現実であった。彼はその歴史的な現実の中で人間とは本来何であるのかを問い、価値とは何か、理にかなった生き方とはいかにすることであるのかを問うた。彼の思考は人間存在をその上限からとらえるのではなくして下限からとらえてゆくところに特色をもつ。彼は人間の明るい陽のああたる山頂の高みから理解するのではなくして暗く打ちひしがれた希望のない谷間から凝視する。彼にとって人間とは多くの場合、刑余の障害者であり、醜き者、貧しき者、虐げられた者等々であった。彼は世の賢者たちの設定するさまざまな価値の体系に対してその偏見を疑い、独断性を反問する。人間が泥鰌より価値ありとされる根拠は一体何なのか、美は何故に価値であり、醜は何故に反価値でありうるのかというように。
彼はまた、人間の合理を人間においてのみ考えるのではなくして、人間を包む天地万物のすべてにおいて追求する。天地宇宙の間に存在するものは人間だけでなく、人間がそうであるように、すべての存在するものは存在するだけの必然的な理由をもって存在しているというのが彼の思考である。荘子における人間はこのような全宇宙的な規模において追求される。彼における人間の自由もまた、このような全宇宙的規模において追求されているのである。人間を頭においてとらえるのではなく、大地をふんで立つ脚においてとらえること、その脚下の大地の果てしないひろがりの中で人間を天地宇宙の間の一物として見出し、人間存在を全宇宙的な規模で把握すること、その把握の中から人間の合理と自由を追求してゆくところに荘子の哲学の特徴が考えられるのである。」
宇宙も社会も自然も身体も「複雑系」である。この複雑なものにシステムで有効に働きかけるには、複雑系の組織を支配している底辺の法則を見い出すことである。
ポスト モダンの「自己組織化」はそれなのだが、この荘子が語る宇宙の複雑系の組織を支配している底辺の法則というのは、空海の自然のばあい「識と地・水・火・風・空」なのです。
そしてこれを表現する場合には、頭部を無くして人間の原初的な身体感覚で「地・水・火・風・空」なる自然の様態に接し、その後荘子の社会状況に似た現在の中東の状態や福島の現状をその様態で描き加えるのです。つまり荘子が語る宇宙的な複雑な現象をこれによって空海は法則化してくれているのです。
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