9 宮田さんに(補
パフォーマンスの行為論とその後
1 社会システムの「開かれた」と「パラダイム転換」
社会学のシステム論の機能的部分は、生物学のシステム理論を土台にしている。
具体的に言うと、檜枝岐パフォーマンス フェスティバルが始まった1954年の同じ年に、ドイツの社会学者、ニコラス・ルーマンの『社会システム』が出版されたのだが、これはチリの生物学者フンベルト・R・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラの「オートポイエーシス(自己組織的システム)」というシステム理論の構想から影響を受けている。
それ以前に、「サーモスタット」の機構を利用した「サイバネティックス」なるものがある。機械のシステムとかメカニズムを超えたものとして、生物が暑い時とか,寒い時とかに直ぐ生理的に反応する「ホメオシタシス」の生体機能に対して、あたかも生命的機能があるかのように制御工学の理論から人工的にフィードバック回路を自動的に演じる『サーモスタット」という機能的構造体を案出し、それを元に人工頭脳のモデル研究が行われ、「サイバネティックス」という人工頭脳の未来が期待されていたのです。
しかし、ルーマンがマトゥラーナとヴァレラが開発した「オートポエーシス(自己規制)」を社会システムの中に取りいれたものは、「サイバネックス」と違っていたのです。というのは、この「自己組織的システム」は、むしろ自分自身を志向し、個別の現象や過程を生じさせるエコロジー的諸条件を自らつくり出すまでに至っていたからです。つまりマシンが機能的に生命的な「マシーニック」な働きをするようになっていたのである。
機械的なシステムが機能的に生きているように見えたこと、これは当時大きな影響を与えていたクーンの科学革命の「パラダイム論」に相応すると思われた。檜枝岐においては、すべての事に「パラダイムの転換」を望んでいたような気がする。
クーンの科学革命の意を成す「パラダイムの転換」とは、科学においてのレベルを越えた進歩過程を指し、先行するパラダイムと根本的に異なる新しいパラダイムが登場し、不連続な断層を後に残すような革命のことです。
そもそも、「一般システム理論」は、1951年に動物生理学者のルードフィッヒ・フォン・ベルタランフィが最初に純粋形式として考え、それを社会学のルーマンに渡した感じになるのですが、ルーマンは「社会なるものは人間という生物が形成している限り、論理と数学から成る機械的な純粋形式のシステムで終わる筈がない」と、機能的なシステム部分をこの一般システム理論の中に取り入れたのです。
さて、ここでこのシステム論の中に「開かれた」という言葉が使われているのは、何を指しているのでしょうか。それは生物と環境との関係を指しているのです。
先に挙げた「一般システム理論」を構想したベルタランフィなる人物は生物学者だったわけで、物理学者は環境から切り離された、「閉じた関係」の中にいるシステムなのに対して、生物学者は本来的に環境に向かって開かれた有機体の生物を対象としいるのです。
ヒノエマタ フェスにおいて「開かれた」というキー概念がよく言われたのは、それまでの芸術家が都市空間または劇場空間に閉ざされいたのが、突然、檜枝岐という開かれた自然空間に放たれたからでしょう。この「開かれた」感覚なるものは、自然環境の中での自ずからの実感だったのです。
そして、この「開かれた」というキー概念の下に、それぞれの芸術家に、新しい作業空間が開かれて行ったように思われます。
しかし、それとは別に、この社会システム論の影響のためか、もの事を「表層的」に判断する傾向に傾いて行った嫌いがないでもない。深部より表層を、精神性より事実の関係性を大切にし、生命とか霊魂などの語句は禁句のようになっていたのです。
代りに、身体論は豊富に語られたのですが、「音楽家の身体」「美術家の身体」などと言語的には論争されたのだが、当時はまだ、分子生物学の時代で、量子力学や宇宙空間などは今ほどは解明されておらず、光とか音波などの次元で物事を考えるほどわれわれの思考が細分化されてはいなかったのです。
従って、「全体と部分」の問題とか「断片化する」などの用語がよく使われたが、また観念的言語を使うより、身体からものを考えるべきだと言ったところで、からだの内部を知って、その構造と機能とじぶんの思考とがどのような関わりにあるのかは、実感されていなかったようです。
そういう未知の分野を孕んだ状態の中で、「複雑性(系)」という言葉がどこからともなく聞かれるようになったのだが、この「複雑性(系)」というのは、システム社会と環境との対象において、社会システムと、社会を形成する人体システムと、またそれが対する自然環境がいかに複雑であるかという認識から発した用語だったようです。また複雑な自然と宇宙を削ぎ落とし、人間社会と人間が営む経済に対応するモだけを対象にし、しかも人間がつくっている社会すらも複雑なものとして、それを分化して「自己組織化システム」で単純化するこのシステムは、果たして「開かれている」いるのか、それとも「自己言及」に終っているのかかが問題とされていたのです。しかし、このルーマンの「社会システム論」とドゥルーズ=ガタリが称えるアルトーの「器官なき身体論」とはこのポスト モダンの世紀を動かす大きな動力だったのです。
そして今にして思うのですが、この環境に対する関係は、それ以来大きな変転を経ているのです。時代的には、古典的な演繹と帰納の解釈の時代を過ぎ、経済学では「ワルサスの均衡論」を考える時代に入っていて、量子力学によってますます細密化するのと平行して、このバランスの測定も連立微分方程式によって計るようにもなっていたのです。
社会システムが対する環境と世界にしても、国と世界との力関係が全く変わったと同時に、グローバルの名の下に資本の移動が国境を超えて乱脈な動きをなしていること。そして21世紀に「自己組織化」のあと「反復」を経て「自己反省」から最初に戻って、新し回帰的近代として前に向って進んで行く筈の世界が闘争の主義の明け暮れ、社会は「リスク社会」に変じ、自然を顧みず、各国が抱える公害の差から「環境問題」をすすめ得なかったことから「地球環境」の問題を放置したまま、新たに原発問題を抱え込むことになっているのです。
システムに対する環境としての自然空間は、気候の歴史的な変動と地震の驚異、それに放射能の問題とが三重に畳み込まれ、宇宙という観念が太陽圏を超える広がりを持ち、一方、量子力学の世界は「 IPS細胞」 以来、われわれの身体に関しては密接に感じられるようになって来ている、という不安感があるのです。
「均衡理論は経済学において発展し、システム理論は政治学において、その中心部に取り入れられ、それらに対して、機能理論は社会学に固有のものである。」と一般に言われている。
しかし、社会学が現在のコンピュータ世界の共通の地盤の上で、これまで他の学問を圧して先陣を走れたのは、上記のルーマンによるシステム理論の導入によってである、と捉えることができる。
社会学は、サン・シモン、コント、ミル以来、他の学問とちがって経験的な実証主義によるものなのだが、この現実のリアルな経験的な事象を対象とした社会学に経済学や政治学が絡んでくると理念的なものと経験的なものに分かれてくる。
社会学というのは、本来的には人間が外環境に対して行為するための、また、その結果出来た組織構造に対して研究する学問なので、構造の分析が主体なのです。つまり「部分と全体」においての要素間の関係です。それを社会学のばあいは人間の行為と機能的観点から調べることがウェーバーから始まったわけです。
その機能的な部分を主体とし、「機能主義の社会学」の土台をつくったのはデュルケームで、それを発展させたのはパーソンズであり、「機能主義人類学」として拡大したのはマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンでした。そして社会学の立場から人体内部の機能的部分を組織立てたのはスペンサーだったのです。
この経済学と政治学と社会学の三者のうちで、経済は数学的に処理でき、政治はウェーバーが言うように、官僚的な役人が保持する制度的なものが、本来機能的なものが機械的に固定されているので、半分は数学で処理することができる。それとは別に、「社会学」というのは、民衆がつくった社会組織を対象としていたものなので、本来は機能的なものであるべきなのです。
2 パーソンズ の「機能主義」と アルトー の 「器官なき身体」
自作『魂と形式』を持ってハイデルベルクのウェーバーのサロンに現れたのは、当時まだ無名のハンガリア人、ルカーチでした。ウェーバーのサロンは、社会学者のジンメルや詩人のゲオルゲなどが常連だったようです。ルカーチはその時は演劇経験のある文学志向の青年に過ぎず、政治に対してはさほど関心を持っていなかったのです。ただ、彼はその時点において、彼の書いたものの中で「開かれた」ということばをよく使っていたようです。
ウェーバーはルカーチを無条件に受け入れ、何かと彼の面倒を見てくれたようですが、ウェーバーの社会学の中の「行為」の意味を知り、その影響でルカーチは政治の実践の世界に入ることになったのでしょうか。
政治システム論の考えは、「政治システムは境界を越えて、環境とのあいだでインプットとアウトプットの交換を行う<開いたシステム>である。開いたシステムであることによって、環境からエネルギーや情報を取り込み、<エントロピー増加による衰退>を防止し、システムの存続を計っている」というのです。
経済学や社会学と比べて、政治が客観的に学問として研究されるのが遅かったのです。それでサイバネックスないしシステム理論の政治学への導入が、他のマクロ経済学や社会学の場合とは違って、補助的なものとしてでなく、主体的な方法として取り入れられたのです。率先してそれを行ったのはアメリカの政治学者のドイチュとイーストンで、それが政治学の主流派となったのです。
社会学のばあいは、機能主義が中心的になっていたので、それを補充するかたちでサイバネテックス並びにシステム理論が取り入れられたのですが、政治社会学の広がりにおいては、フーコーのように「権力」の側から<閉ざされた歴史>を調べることも行われたのです。
それまでの伝統的な政治理論が「マキアヴェリ、ホッブズ、ロック以来の機械的政治論か、バークやアダム・ミュラー以来の有機的政治論であった」歴史的経歴に対して、「政治に指導的意志目的」を建てることの意味から「政治の意志決定システム」としてサイバネテックスを基にした「システム理論」を全面的に導入するようになっていたのです。
今、客観的に、これまでのアメリカという国の意志決定と行動を見ると、確かにドイチュとイーストンの政治学がアメリカという国に浸透している、と思うのです。そして大衆の願いと政治方針とのバランスをシステマティックに計った上で慎重に意志決定している、ことが感じられるのです。
さて、ここで社会学が経済学の「均衡論」や政治学の「権力論」とは違って、「機能」の要素を中心的な要素とし、あえてシステム論を導入してメカーニックなシステム形式にしながらも「機能」の面を大切に保持するのは、やはり社会学というのは政治的権力とか経済的バランスということでなく、国という構造体を基本に考えているからです。
それでマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンの人類学が機能主義を称えたのに対して、同じ機能主義でも社会学者のパーソンズは構造を視野に入れ、機能と組織の有機的な要素のほかに構造の要素「地位、役割、制度、社会過程、文化パターン、社会規範など」(マートン)を視野に入れたのです。社会の構造の中での「組織」とか「行為」というものを「機能」との関わりで考えてみると、機能は価値(ヴァルール)を対象にした、作用(ファンクション)と過程(プロセス)であって、それ自体なんらの実体のないものです。従ってこのばあい「組織」とか「行為」というものは抽象化されているのです。
それに反して個人の身体が行為することは、それは身体の動きと他物との間の目に見える動きの経過と作用であって、そこで意味性も価値もリアルな次元に止まってしまう。それゆえ、「パフォーマンスはイコール身体の行為だ」という定義はそれ以上前へ進まないわけです。
美術史の上での身体行為としてのパフォーマン アートの行き詰まりの原因は、このことにあったと思います。
この機能的な部分の社会学の解釈の方が、イギリスのオースティンの『言語と行為』で説く、言語遂行の「パフォーマティブ論」より、われわれのパフォーマンスにとって重要なヒントを与えていると思います。
社会学の「行為」については、ウェーバーのパラダイムを転換したものがあります。
パーソンズが行ったことは、その後ルーマンがやったように生物学からの取り入れでした。生物学では電子顕微鏡の進化によって各細胞の分子の動きを観察することが可能になっている。そして、その化学的結合の結晶体は、すべて幾何学的な形態を取っている。その生理の微細な運きは、正方形の中に2つの対極線を引いてつくられるた大小8つの三角形と、それを取り囲む四角の枠の線上を走りつづけている。この生理学の微細な現象を、パーソンズは彼の機能社会学の理論の上に取り入れたのです。
パーソンズはその構図を、彼の「社会システムの内部境界相互交換」の図に取り入れ、動きの4種類の交換メディアとして貨幣、権力、影響力、価値コミットメントを掲げているのです。
アルトーの「器官なき身体」に関しては、彼の死の直前に書かれた『俳優を狂気にする』と『演劇と科学』の2つの論文への解釈によって次のように結論づけることにしました。
人間を含めて動物の身体は心臓機能が止れば有機体としての生命を失うのです。それに対して中心的な政府の機能が失われても、構造的要素が存在する限り、中心的機能を変革することによって、社会の内実が変わって存続するのです。
その意味で、人間の生命的機能を司る器官というものは「一方通行」で。宇宙が形成したものとしては半端な機能で、アルトーのいうように、この器官と組織と骨を粉々に刷りつぶして分子化しないと、宇宙の細密な関係や人間の生命的な魂から発した数式や芸術形式などに通じることが出来ない。
岡潔の数学の難問を解くときに感じる情緒は、この器官のないときの微細な通路(プロセス)と作用(ファンクション)であって、身体の行為からではない。
そして、この情緒は感情とは別なものです。それはライプニッツの頭脳と同じように、リンパ働きで新しい思考の回路を見い出した時に起る情緒なのです。
厳密に言うと、身体内部をそのような状態(「器官なき身体」)に持って行かなくては、その境地に至れないということなのでしょう。
しかし、それは老荘のタオと、大乗仏教の「中観」の思想が望んでいたことと同じ目標なのです。そしてそれに至る技術的な修行にしても、アルトーは同じような方法をイメージしていた、と解釈した方が正しいようです。
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