Tuesday, July 12, 2016

アルトー館公演



相良、高橋、山下さんに

『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』から

「ただ存在を構成する要素だけがあるとみて、実体的な自我を否定すれば、八種の瞑想力を観想して、六つの不可思議な能力が得られる。十二の因果関係を体得すれば、実体的な自我は存在しないという智慧によって根源的な無知のもつ可能性をのぞくことができる。
絶対の慈愛の心をもって、万有はただ識のみとしてあらゆる認識の対象の実在を否定すれば、煩悩と所知との二つの障碍を断ち、迷える者の心を仏の智慧にかえることができる。心の絶対の本性をさとり、唯一の空無を知って思慮分別を断つならば、心はしずまって絶対で現象を離れたものとなる。

天台で教える一道を、本来清らからかなものと観想するならば、観自在菩薩はなごやかによろこばれるし、真理をもとめる心をおこしたとたんにさとりの世界を思念すば、普賢菩薩はほほえまれるにちがいない。ここにおいてか、こころの外のけがれはすべてなくなり、荘厳な曼陀羅世界はようやく開示される。」

及川の註=上の文章は空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中の一文です。この空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』は華厳教と密教をつなぐ役割を担って書かれたものなので、あえてこの一文をここに掲げます。



相良さんへ

最初の岩の後、砂の上を歩き、やがて立ったまま“樹”に変身し、やがて華厳観の一つ「海印三昧(かいいんさんまい)」に入ってゆく、その後“観音”の踊りとなる。この部分は独りづつ踊り最後に3人がどのような場の構図を描くかが問題です。
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『華厳経』のなかでは、海印三昧(かいいんさんまい)を海のような境地のなかにしるした最も深い三昧というように使っているが、『妄尽還源観(もうじんげんげんかん)』 の海印の解釈は独特で、海印とは真如本覚なりといい、『起信論』の影響を強く受けている。「妄尽心澄 万象斎現(もうじんしんちょう ばんしょうせいげん)」、こういう状態だというのである。
妄念が尽きると心が澄みわたる。そして心が澄みわたった境地のなかに万象、あらゆる事法界(じほっかい)のものが斉(ひとし)く映現(えいげん)しているのだと説明した。それは時間的、空間的にすえてに万象である。そうすると過去があらわれてくる、未来があらわれてくくる。空間的には地球だけでなく、金星の姿まで写ってくる。時間的には無限の過去から無限の未来がここにあらわれてくる。そういう状態を「海印三昧」というのである。

及川の註=この中の「万物斉同(ばんぶつせいどう」は、元は“荘子”の中心思想なのです。座禅によってそれを修得できると言われていますが、その前に海のイメージを描かせる、というのは巧い方法です。


高橋さんへ

最初の岩の演技の後、砂の上を歩き、やがて立ったまま“金”のキャラクターに変じ、かるく動く。その後「華厳観」の瞑想にに入ってゆくのだが、最初
の、人世のあらゆる生き方の経験をして、自分の本然の相(すがた)を見い出す“理事無礙“の修行の段階を既に経た今は、次ぎの“事事無礙“の華厳三昧に入るのです。これを各人が持つ“仏性”の展開の場と考えてもいい。
そして、この場合は、普賢が持つ“仏性”の華を思い切り開かせればいいのです。それは“大悲”の華です。
普賢の動きについては、『仏像のすべて』花山勝友を参照してください。

この部分は独りづつ踊り、最後に3人がどのような場の構成を描くかが問題なのです。


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