Friday, July 29, 2016

アルトー館公演



 相良さんと 高橋さんへ

 9月公演の参考資料として

       
        華厳 の 観法

  1) 海印森羅常住(かいいんしんらじょうじゅう)の用 と
        海 印 三 昧(かいいんさんまい)

  体(たい)によって二用(にゆう)を起す。「一体が終わると二つの用(ゆう はたらき)が起ってくるというもので、その二つのはたらきとは、海印森羅常住用(かいいんしんらじょうじゅうゆう)と法界円朝自在用(ほっかいえんちょうじざいゆう)であるが、前者は『華厳経』の海印三昧(かいいんさんまい)にあたり、後者は華厳三昧にあたる。
 『華厳経』のなかでは、海印三昧を海のような境地のなかにしるしたもっとも深い三昧というように使っているが、『妄尽還源観(もうじんげんげんかん)の海印の解釈は独特で、海印とは眞如本覺(しんによほんがく)なりといい、『起信論』の影響を強く受けている。「妄尽心澄 万象斉現(もうじんしんちょうばんしょうせいげん)」、こういう状態だというのであ
る。

 妄念(もうねん)が全部つきると心が澄みわたる、そして心が澄みわたった境地のなかに万象(ばんしょう)、あらゆる事法界(じほっかい)のものが斉(ひとし)く、映現(えいげん)しているのだと説明した。それは時間的、空間的にすべての万象である。そうすると過去があらわれてくる、未来があらわれてくる。空間的には地球だけではなくて金星のすがたまで映ってくる。時間的には無限の過去から無限の未来がここにあらわれてくる。そういう状態を海印三昧というのである。

 これはたいへんなことだと思う。よほど情報キャッチ能力がないと、こういうことはできないであろう。この「妄尽心澄 万象斉現」という言葉は私の好きな言葉であるが、ちょうど碧潭(へきたん)、きれいに澄んだ水に満月が影を落としている、その影を見て月があるかと思うと、その月は小波(さざなみ)が立つと消え、また水が澄んでくると月が映ってくる。 そのピーッと澄んだときである。しかしその月は、月といっても仮現(かげん)にすぎず、手ですくおうとするとない。しかし確実に映ってくる、そういう状態をいうのである。
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 2) 法界円明自在(ほっかいえんみょうじざい)の用 と
       華厳三昧(けごんさんまい)
 
 つぎは、法界円明自在(ほっかいえんみょうじざい)の用(ゆう)であるが、これを華厳三昧と呼び、つぎのように説明している。「広修万行 称理成徳 普周法界 而証菩提」、これが華厳三昧の定義である。広(ひろ)く万行(まんぎょう)を修(しゅう)し、理(り)に称(かのう)て徳(とく)を成(じょう)じ、普(あまね)く法界に周(あまね)き、而(しか)して菩提(ぼだい)を証(しょう)す、このように華厳三昧を「妄尽還源観(もうじんげんげんかん」で説明しているが、たいへんな三昧だと思う。

 「広く万行」、あらゆる修行をおこなってと言ってもいいし、人世あらゆる生き方をして、ありとあらゆる経験をして、その結果「理に称(かな)う」、本然(ほんねん)の理性(りしょう)にかなって、その人の持っている本然の相(すがた)を完成するのだ。
 「徳」は本然の相のことである。そして「普く法界に周き」、この「法界」は事事無礙法界(じじむげほっかい)で、霊的存在。霊的世界に自分の心をあまねくゆきわたらせて、「菩提」は悟りのことであるから、そこに悟りを開いていくのである。

 四法界(しほっかい)でいえば「広修万行 称理成徳」は理事無礙法界(りじむげほっかい)の世界であり、「普周法界 而証菩提」は事事無礙の世界である。理事無礙から事事無礙に転じていくのが華厳三昧であると定義しているわけである。これを仏性と(ぶっしょう)と考えてもよい。各人が持っている仏性を花ひらかせて、そして本来持っている本然の相を完成するのだ。

 『華厳経』のことを法蔵は「称性ノ理教」と呼ぶことがある。それは理に称(かな)う、性に称(かな)うことで、仏性に称うということは、仏性が貫徹してくる、仏性がが性起(しょうき)してくる、仏性そのままになりきっていく、そういう真理を説いた教えであるという意味である。
 ここでは「称性」あるいは「称理」という言葉を考えてみるが、称性とか称理ということは理事無礙法界(りじむげほっかい)で理性というものが顕現(けんげん)してくる、それにかなっているということである。「称」は、称するとか称(とな)えるということではなく、「かなう」と読み、理に称’(かな)う。理が貫徹する、つまり理そのものであるという意味である。理そのものがそこへあらわれてきて、本然(ほんねん)の相(すがた)である徳(とく)を成(じょう)じてゆくのだ。松は松なりに、竹は竹なりに、その本来のすがたを成(じょう)じているすがた、それが理事無礙法界である。そしてさらにそれを超えていくと事事無礙法界(じじむげほっかい)の世界に入って、本当の悟りをひらくのだということである。

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      『華厳の思想』鎌田茂雄 講談社学芸文庫 より

 

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