9月公演のための
「般若心経」の解釈
空 と 空性
梵語(サンスクリット語)は、ヨーロッパで言うとラテン語に当たるインドの古典語で、文法体系が極めてカッチリしている。一つの語根にいろいろの接尾辞や語尾変化を加えて定型動詞(人称、時称等を具えた型)も作れば、例の接尾辞を加えて名詞形(名詞や形容詞)も作る。さらにその名詞形に接尾辞をつけて、新しい形容詞を作ったり、抽象名詞を作ったりする。「般若心教」の梵語は、たまに正規の文法からはずれた形も見られるが、だいたいは古典梵語の知識で読めるし、文法にしたがって忠実に解釈しなければならない。
他方、中国語、漢文というのは、その性格がおよそ梵語とは対蹠(せき)的で、全く語尾変化というものがなく、抽象名詞をつくる接尾辞などについても、あまり頓着しない。そこで、漢訳仏典を読むとき、多少の注意が必要となる。
こんなことを書き出したのは他でもない。「空」という漢訳語には二種類の原語があるからである。まず、例の「五蘊皆空」の場合は、梵語から直訳すると、
それら五蘊はその固有の性質(自性)が空であると観察した。
となり、「空」は何かの欠けている状態を示す形容詞である。
それに対し、次の「色不異空」などの場合は、同じく梵語によると、
ここで、舎利子よ、いろやかたち(色)は、(いろやかたちが本性として)空であることに他ならず、空であることはいろやかたちに他ならない。いろやかたちとは別に、空なること があるのでもなく、空なることとは別に、いろやかたちがあるのでもない。いろやかたちなるもの、それは空なることであり、空なること、それはいろやかたちなるものである。 となる。
この場合の「空」は「空なること」で、シューニャ(空なる)の後に「ター」という抽象名詞を作る語尾が付いている(シューニャター)。この意味を漢語で強いて表すと「空性」となる。
さて、空なること、空性は、いろやかたち(色)をはじめとして、受・想・行・識というすべての法(一切法=五蘊)が固有の性質を欠いていることを意味する。そして、それは釈尊の悟られた真理の内容にほかならない。
悟られた真理は、『阿含教』では「縁起」といわれ、あるいは、『諸行無常」とか「諸法無我」あるいは「一切皆空」などと表明されているが、それらと同じ内容を、この「空性」ということばが示すものと解せられる。
換言すれば、縁起したものであり、無常であり苦であり、無我であるところの一切法が、『般若経』では、「空である」と説かれ、そのことが「空性」の一語で表明されることになったのである。
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高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より
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