Sunday, July 24, 2016

アルトー館公演




 華厳経について

      ニヒリズム と 華厳経


 中国の老荘思想のなかには、一切のものを否定しようとする虚無(きょむ)主義的な考え方があるが、仏教のなかでも一切を否定する「空(くう)」の教えがニシリズム的な傾向を含んでいる。
 法蔵(ほうぞう)が説いた頓教(とんぎょう)は、一切の言葉や概念を否定しようとする教えであり、ある意味では人間のふつうの生き方や妄念(もうねん)を徹底的に否定する。

 一つのものの奥底に徹する生き方であるが、しかし、華厳の立場ではこの考え方を克服しなければならない。頓教の考え方のように妄想がなくなればいいではないかと思うが、これを人世観として徹底させると超ニヒリズムになる。一切なにもないというのであるから、人間のいとなみ、生のいとなみがまったく消えていく。それを法蔵は、それだけではだめであるというのである。

 これだけでいくならば、これはなお浅いのだ、森羅万象(しんらばんしょう)そのものが毘盧遮那仏(いるしゃなぶつ)の光明であり、存在しているあらゆるものが、仏の相(すがた)を顕現(けんげん)させているということを知らないではないか、と主張した。
 ここでニヒリズムから実存主義への転換が起る。頓教というのはニヒリズムで、一切を否定してしまって何もない、物になりきっていくわけである。そこからは「大悲(だいひ)」が出てこない。大悲が動いてこない。大悲が動くためには、ありとあらゆる存在物が仏の光明に包まれていると感得(かんとく)しないといけない。

 だから第四段階の頓教(とんぎょう)の好きな人は第四段階でもいい、あえて、第五段階の円教(えううぎょう=華厳教の立場)に進む理由はない。かく言う私も第四段階のほうが好きなのだが、法蔵は「華厳経」の立場、すなわち円教(えんきょう)の世界が本当だという。
 なぜ「華厳経」の立場が本当かというと、仏(ほとけ)の光明(こうみょう)にあらゆる存在しているものが包まれてくると、やっと他人も他の物もここに生きてくる。そして
ここに大悲による仏国土(ぶっこくど)が生まれるわけである。

 第四の頓教の立場では仏国土はない。これはどこまでも覚(さ)めきった世界である。それが仏国土だというならそれでもいいが、しかし最後には、こんな骸骨(がいこつ)の上にかかわってもしようがないといって、鳥も逃げてしまい、狼も虎もあきれて、これは石ではないかと逃げてしまうようになったら仏国土にはならない。やはりその人が坐っているところに、なんとなく人が慕って集ってこないといけない、草花も喜んで咲いていてくれないといけない。

 そうなると、どうしても悲(ひ)が動いていかないといけない。悲が動くということは、ありとあらゆる存在のものが、仏の光明を放っていなければいけないのである。山は山なりに山の光明を放ち、川は川なりに川の光明を放っている。
 そうすると、その存在物はみな生きてくる。お互いのものがお互いに生命を放ち合っていけば、はじめてここに悲が動いていく。そして仏国土が現成(げんじょう)していく。
 それを法蔵は言いたいわけで、仏教としては円教までいかなければいけない。円教の段階にくることによって、ニヒリズムを超克して実存の歓喜(かんき)に向かわないといけない。宗教的な歓喜に向かわないといけないのである。
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                 『華厳の思想』鎌田茂雄 講談社学芸文庫 より
  


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