Saturday, July 30, 2016

アルトー館公演



 村田/小野さんに
 9月公演の資料として



                    彫 刻  2  へルダー 登張正実訳




 光は目の中へ何を描くことができるのか。描かれるものは像である。暗い部屋の白壁に光が射すように、目の前にあるいっさいのものが光線をたばねた絵筆と化して網膜に射しこみ、その光の筆は目の前にあるものしか描けないから、それは平面であって、目に見える対象がどんなにちがったものであろうと、いっさいの対象の並列である。
 前後に並ぶものとか、がっしりした、かさばったものを、そのまま目に訴えることは、厚い壁布のうしろにかくされている恋人や、風車のとびらの内側で歌っている農夫を描けないのと同様に不可能なのである。

 私が眼前に見るひろびろとしたこの景色、これは、そのいっさいの現象とともに、画像、平面図以外の何ものであろうか。あの垂れさがった空、その空へ没する森、ひろがっている野、もっと近くの川、ふちどる岸、この像全体の描き方は------ 画像であり、図版であり、どこまでも並列する連続である。どの対象もそれ自体、ちょうど鏡が私自身を映すのとおなじぐらいに私の目に映る。それは図形である。鏡に映る私が図形以上のものだということは、べつな感覚によって認識するか、さまざまな観念から推測するほかはない。

 従って、視野のよみがえった盲人が、描かれた家、色のついた平面が彼の前につっ立っているとしか見なかった ということが、どうしてふしぎだと いうのか。ほかの方法で見いださなければ、われわれはみな、何ひとつもはや見えないのだ。赤児には、空とゆりかご、月と乳母が並んで見えるので、乳母にたいするのとおなじように月にむかって手をのばす。赤児にとっては、なにもかも一枚の坂の上の像だからだ。
 夜の暗闇のなかで、眠りからはっと目ざめたとき、判断力が集中するまでは、森と木、近いものと遠いものとがひとつのおなじ地(じ)の上にある。われわれが目ざめて、判断力を集中させるまでは、近くの巨人だったり、遠くの小人だったり、われわれを目がけて動いてくる幽霊だったりする。

 それから、われわれははじめて、習慣やほかの感覚、とくに触覚を通じて、見ることを学んだとおりの見方をする。われわれが触覚によって一度も立体であると認識したことのないような立体、あるいはたんにそれらしいというだけでは、その実物を判定できないような立体があれば、それはいつまでたってもわれわれには土星の環であり、木星のひも(木星の赤道と並行する縞)である。
 全身これ目という千眼入道でも、触覚がなければ、千の手がなければ、一生、プラトンのいう洞窟に閉じこめられて(壁に映る影だけを見ている囚人たちとおなじであって)、そういう現象として意外にただのひとつも立体的性質というものを本来理解できないであろう。

 そもそも立体のあらゆる性質というものは、その性質のわれわれの人体、われわれの触覚にたいするかかわりあいとしては、どういうものであろうか。光が通らないこと、堅さ、柔かさ、なめらかさ、形、丸さなどであろうか。私の心がいくらひとりで考えても、そういう性質の具体的に生き生きした概念をあたえられないと同様に、私の目は光を通じてそういう性質の具体的に生き生きした概念を私にあたえることはできない。
 
  鳥、馬、魚はそういう概念-------つかみ方をもたない。人間が持っているとすれば、それは人間が理性とならんで、握ったりさわったりする手同時に持っているからでだ。そして人間が手を持たない場合、ある立体について立体的感覚を通して納得する手段がない場合には、人間は推しはかり、解きあて、ゆめみ、うそをつくほかはない。そしてどこまでいっても何ひとつ本当にわからないのである。
 立体を立体としてただ見とれたり、ゆめみたりせず、つかまえ、持ち、所有すればするほど、感じ方が生き生きとしてくる。それが、ことば自体も示しているように、事物の概念、すなわち「物事をつかまえること」Begriffである。

 
 子供の遊び部屋にはいって、どんなに小さくとも経験の人間である子供が手や足を使って、つかんだり、握ったり、手にとったり、重さをはかったり、さわったり、寸法をはかったりしながら、たえず、立体、姿、大きさ、広がり、距離等々のむずかしい、最初の、そして必要な概念を忠実に確実に身につけようとしているのを見たまえ。
 ことばや説教ではそういう概念を子供に与えることができないが、こころみたり、確かめたりする経験がそれをあたえてくれる。ほんの数舜のあいだに、ただ見とれたり、ことばで説明するだけなら一万年かかってどうやらできる以上のことを習いおぼえ、それも、すべてをもっと生き生きと、もっとまちがいなく、もっと強く習いおぼえる。この場合、視覚と触覚とをたえず結びつけ、一方を他方によって調べ、意味をひろげ、差異をきわだたせ、中味を濃くすることによって-------- 子供は自分の最初の判断のを形づくる。操作や推論をしくじることによって真実に到達する。そして、そのことを考えたり、考えることを学んだりすることが手堅いものになればなるほど、おそらくじぶんの生活のもっともいりくんだ判断の上にすえると見られる根底がますますしっかりしたものになる、まことに、子供の遊戯部屋こそは、数学的=物理学的教授法の最初の博物館ともいうべきものだ。

 心を集中させて手さぐりする盲人が、立体的性質について、一条の太陽の光線とともに視線をすべらせて見ているだけの人間よりもはるかに完璧な概念を集めるということは、実証ずみの事実である。包みこまれた、暗い、だが限りなく熟練した彼の触覚と、自分の概念をおもむろに、ごまかしなく、確実に手に触れることによってわがものにしようとする方法とで物の形と生き生きとした現在感について、すべてのものがただ影のように逃げ失せるだけの人よりも、はるかに細かな判断を くだすことができよう。
 盲目でありながら、目の見える人間をしのぐ臘人形を作る人がいた。そして、私は、ある感覚の欠落が、ほかの感覚によって補足されなかったような例をいまだ聞いたことがない。視覚は触覚によって補われ、光による色彩の欠如は、奥行き深く刻みこまれた形姿によって補われる。従って次のことは本当である。
 「目でみる立体は平面にすぎないが、手で触れる平面は立体である」
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     『ヘルダー  ゲーテ』(世界の名著)中央公論社 より

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