Wednesday, July 27, 2016

アルトー館公演



9月公演のための関連資料

       彫 刻   ヘルダー  登張正美訳
           

 作品について語り、また芸術について哲学的考察を行うことが許されるとしたら、その哲学は少なくとも精密なものでなければならず、できることなら、最初の、もっとも簡単な概念に到達しなければならない。
 美術に関する哲学的考察がかってまだ流行していたとき、私は長いあいだ、美しい形と色とを、彫刻と絵画とに分けるべき本来の概念を探し求めた。そして、ーーーそれは見つからなかった。

 つねに絵画と彫刻はたがいに入りくみ。両方の美しさを創造し感得するひとつの感覚、すなわち、魂のもつひとつの器官のもとに捉えられている。従って。この美しさというものも完全にひとつの方法、同じ自然な描き方によって、ひとつの空間内に並行して作用し、ただ、一方が立体の形をとり、他方が平面の上で作用するという違いだけである。こういう考えに接して、私はほとんど理解するところがなかったと言わざるをえない。

 ひとつの感覚の領域内における二つの芸術ということになると、それは同時にまったく主観的には同じ美と眞の法則を有していなければならない。なぜ両者は同一の門をはいり、同一の門から出ていくことになり、そして、ほかでもない、ただひとつの感覚のためにのみ存在することになるからだ。従って、絵画は自分の望むだけの彫刻ができ、彫刻は自分の望むだけの絵画を描くことができなければならず、そして、それは美しくなければならない。両者はひとつの感覚に奉仕し、魂のただ一点を動かすのだから。

 だが、この事ぐらいまちがっているものはない。私は両者を追求して、一方のどんな特徴も、どんな作用も、どんなたったひとつの法則も、相違と制約なしに他方にあてはめることはないことに気がついた。
 まさに、一方の芸術の何ものかが独自なものであればあるほど、そして、いわばその芸術独特のものとして、自分のなかで大きな働きをしていればいるほど、それはうっかり他の芸術へ適用したり移したりしてはならないので、さもないととほうもない影響をひきおこすことを私は発見した。

 私はこういう点に関するひどい例がじっさいに行われているのを見いだしたが、二つの芸術と理論と哲学にはもっとはるかにひどい例があった。この理論と哲学はしばしば、芸術と学問についての無知なひとびとによって書かれたもので、何もかも奇妙にまぜあわせ、二つの芸術を姉妹、ないし親の違う姉妹とは見ず、おおむね二重のひとつのものと見なして、どんなぼろでも一方にあれば必ず、他方にも見いだされた。

 そこでいよいよ、かのみじめな批評、禁じられたり狭められたりするみすぼらしい芸術法則、普遍的美に関する甘辛い駄弁が生まれてくる。この普遍的美などというものは、その頃の大家なら吐き気を催すようなものだが、物知り顔の馬鹿者が金言のように
口にするために。門弟たちになると、このことばによって自分を台無しにしてしまうのである。
 ようやく私は自分の概念に到達したが、この概念は私には紛うかたなき眞実であり、われわれの感覚の本性、二つの芸術の本性にかない、数多くの珍しい経験に対応しているように見えるので、この概念は、本来の主観的境界石として、二つの芸術と、そのもろもろの印象の基準とをきわめておだやかな方法で分けるのである。
 私はどちらの芸術にも何が固有で、何が無縁なのか、何ができ、何が欠けているか、何が夢で、何が真実なのか、を見分ける一点をかちえた。

 美の本質をそこにおいておそるおそる遠くから予感するある感覚が私に生じてくるように思われた。そこにおいてとは、-------いや、私はあまりにも先を急ぎすぎ、またあまりにも多くをしゃべりすぎる。ここでは、美の芸術相互の割りふりに関する私の考えの大筋にとどめる。
 われわれは、自分のそとにある対称を「横に並んでいるもの」nebeneinanderとして捉える感覚、「時間的に前後するもの」nacheinanderとして捉える感覚、「内部的にはいりこむもの」ineunanderとして捉える感覚を持っている。すなわち、視覚と聴覚と触覚である。
 
 併存する対称は平面を生む。もっとも純粋単純な前後対象は音である。相互の中と横と寄り集まりとが一挙に生じた対象が立体ないし形である。従ってわれわれのなかには、平面と音と形にたいするひとつの感覚があって、その場合、美ということが問題になるときは、それぞれ平面と音と立体のように区別されていなければならない美の三種類にたいする三つの感覚がある。
 芸術がそれぞれこの三種類のどれかで制作するのであれば、われわれはまたその領域を外側と内側から識別する。
 外側から見れば平面、音、立体であり、内側から見れば視覚、聴覚、触覚である。

 これがつぎに芸術の境界となるので、それを決めるのは本性であって、申しあわせた取り決めではない。従ってどんな取りきめでもこの境界を変更することはできないので、さもないとこの自然=本性が復讐する。
 絵を描こうとする音楽、音をひびかせようとする絵画、色をつけようとする彫刻、石に刻もうとする絵画というものは、何の効果もない、あるいは虚偽の効果を持った変種ばかりである。

 そしてこの三つは、平面と音と立体という関係であり、あるいは広大な創造作用がいっさいを捉え、いっさいを包みこむときの三つの最大の媒介者、空間と時間と力のような関係である。
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    世界の名著 『ヘルダー ゲーテ』中央公論社 より


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