9月公演のための 参考資料として
「般若心経」
心無 罣礙(及川註 心のわだかまり)
ー 空性の実践 ー
般若はらみつは「五蘊皆空』と観ずる智慧であることを述べてきた。そして、「舎利子よ」にはじまり「無智亦無得(むちやくむとく)」に至る一段(文章ごとに切れば三つの部分に分かれる)は、この「五蘊皆空」を展開して、その意味と具体的内容すなわち諸法の空相(くうそう)を説いているので、当然これがまた般若はらみつによって知られることがらに他ならない。
では一体ひとは何故。空性(くうしょう)を感じなければならないのか。また、空性を感じると、それは修行者にどんな効果をもたらすのか。これが、次の一段の明かすところである。
これは空性のはたらき(空用)と言うべきであるが、これまた般若はらみつの効用と言ってもよい。
さて、般若はらみつの効用として、ここには二つのことが挙げられている。第一は涅槃を究見すること<及川註 涅槃を達成すること>、第二は「阿耨多羅三藐三菩提を得ることである。< 及川註 涅槃に入って後に、あのくたら(無上で)さんみゃく(正しい)さんぼだい(悟りを得ること)>
涅槃は「涅槃寂静」という法印の説明中でも述べたように、心の平安・寂静の境地・煩悩の焔のふき消された状態ということで、四諦の中の苦滅諦と同じであり、また、十二因縁で「無明尽」によって最終的には「老死尽」に至る、その滅尽の最後の果を言う。それはまた、「煩悩は尽きた。梵行は確立したなすべきことはなしおえた(所作已弁 しょさいべん)。もはや二度と輪廻しない(不受後宥 ふじゅごう)」と自覚することだとも教えられている。
このように涅槃を究明することは、阿羅漢となることとも同じであるが、菩薩もまた同じ涅槃に至るし、諸仏も同様である。涅槃は仏・菩薩・声聞・縁覺を問わず同一味であるというのも、仏教に共通する理解である。
これに対し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)というのは仏に限られ、「無上正統覺」の意味の梵語で、それは諸種のさとり(菩提)のうち、仏のみの得られた悟りに対する名である。
菩薩はこの諸仏と同じ悟りを目差して修行しているものであるから(発心=発菩提心=無上正等覺にむけて心を発起すること)、菩薩たるものにとって阿耨多羅三藐三菩提は究極の目標である。
現に発心し修行を積んだ菩薩たちだけではない。いかなる衆生でも、発心し修行する限りは菩薩であり、そして仏と同じ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は究極の目標である。
現に発心し修行を積んだ菩薩たちだけではない。いかなる衆生でも、発心し修行する限りは菩薩であり、そして仏と同じ阿耨多羅三藐三菩提 (あのくたらさんみゃくさんぼだい)得ることが最終的には可能である。
ただし、そのためには般若はらみつを身につけ、五蘊皆空と空性の理を会得、体得しなければならない。この究極的効用の故に、般若はらみつには「深い」とか「甚深」という形容がつくのである、甚深とは思慮の及ばないという意味である。
ところで、経文には少し矛盾することが書いてある。すなわち、前段のおわりに
「智も無く、徳も無し」とあり、つづけて、
「無所得の故に、菩提薩堆は般若波羅密多に、依るが故に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまう」となっている。
智も徳もないのに、般若はらみつに依って、さとりを得るというのである。 言ってみれば、智のないのが智であり、得のないのが徳である、というわけである。こういう表現は「般若経」がしばしば用いるもので、たとえば、「金剛般若経」にも、
「須菩提よ、私は般若波羅密、即ちこれ般若波羅密に非ずと説く」(梵本では「だから般若波羅密なのだ)と第三句をつける)とあり、さらに
「須菩提よ、実に法として如来の阿しゅく多羅三まい三菩提を得ること、有ることなし」
それ故、釈迦牟尼仏は燃灯仏によって、将来仏に成ると授記されたのだ、とも教えている。
ここでいわんとするところも、それと同じである。そのような般若はらみつが無くして、しかも有るということが空性のはたらきと言うべきであって、それを表わすのが「心無けいげい」の四文字である。
観自在菩薩が、五蘊皆空と観じた。つまり観自在菩薩には般若の知恵がある。それは、どうしてわかるか。それは、その心が何ものにも邪魔だてされず、自由自在にはたらくことで知られる。自由自在のはたらきは『観音経』に言うように「仏身を以て得度すべき者には即ち仏身を現じ」ないし、「執金剛神を以て度すべき者には即ち執金剛神を現じ」て衆生を度することである。
それと同様にすべての菩薩は、いや、人は誰でも 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に向けて発心し修行したならば、般若はらみつに依って空性を感じた時、みな「心無けいげい」となり「心得自在」である。
罣礙と訳されたことばは、覆うもの、さえぎるものである。それは一般に煩悩を意味するが、ここで「罣礙なし」というのは単に煩悩が無いというだけでなく、もっと積極的に真実を見とおすはたらきをいう。
真実を見とおすとは経文に「転倒を遠離する」と言うもので、すべての転倒した見方を離れ、真実を見る者には恐れはない。恐れなき者は勇猛に利他行に精進する。それが菩薩摩訶薩(大士)といわれる所以である。
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高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より
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