9月公演「庭」の参考資料として
『般若経』と『般若心経』
前説で、『般若経』とは『智慧の心髄』という意味で、仏のさとりの心髄を説いているお経であると述べたが、本説は少し別の角度から、その意味を考えてみることにしよう。
『般若心経』の『心』というのはサンスクリット語(梵語)のブリダヤの訳で、心臓。ハートの意味である。心臓は身体の中心で、命の源であるから、転じて、ものごとの核心、心髄、精髄、エッセンスの意に用いられる。
『般若心経』が般若の核心を説いたお経であるということは、般若のことを詳しくさらに説いた経典もあることを示している。それが、あの大般若会で転読される『大般若経』六百巻である。
六百巻という膨大な量の経典が、その中味をせんじつめれば、二百六十二文字の心経になる。その意味では、『般若心経』は『大般若経』の内容を要約して、その核心となるところ、さわりの部分だけを説いた経典であると説明することができよう。
ところで、漢訳の大蔵経をみると、この大小両極端の般若経のほかにも、いろいろな種類の般若経がある。たとえば、曹洞宗でよく読頌する『金剛経』もその一つで、詳しくは『金剛般若波羅密経』とよぶ。『大般若経』や『般若心経』は、唐の玄奘三蔵が訳したものであるが、『金剛経』は鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)すなわち羅什三蔵の訳したものを用いている。
羅什三蔵の訳したものでは、そのほか『『大品般若(だいぼんはんにゃ)』とよばれる二十七巻の「摩訶般若波羅密経」や、『小品(しょうぼん)般若』とよばれる十巻の同名の経なども重要で、よく用いられている。
じつは『『大般若』の六百巻というのは、このようないろいろの般若経を集めて、一まとめにしたもので、現代風に言えば、さしずめ般若経全集といったところである。すなわち、『大般若』は初会から十六会までに分かれているが、その一つ一つが元来完結した経典だったわけで、たとえば『『大品般若』は第二会に相当し、『金剛経』は第九会に相当する。
『会(え)』というのは法会あるいは法座ということで、仏の説法を聴聞するために集った集会をさす。世尊が、ある時、ある場所で説かれた教えを一会と勘定する。したがって[大般若』十六会は、別の言い方をすれば、十六回にわたって行われた「般若波羅密」についての説法の集大成と考えてもよいであろう。
仏さまは、よほどこの「般若波羅密」ということをだいじに考えられたのであろう。何度もくりかえしくりかえし、ある時は長く、ある時は短くその教えを説かれたというわけである。
そのような、般若波羅密についての教えのうちで、一番短いのが『般若心経』なのであるが、しかし、じつは、『般若心経』は『大般若』六百巻の中には含まれていない。あまりにも短編なので省いたのかどうかは知らないが、その成立から言うと、『大品般若』の原典あたりから、文字どおり要文を抄録して編集したものであるらしい。
『大般若経』は、玄奘の訳をはじめとして、七種の異訳が伝わっているが、羅什訳の存在からみて、おそくても四世紀にはすでに成立していたようである。
ここで、少し「お経」の形式について触れておきたい。
「お経」は<如是我聞(にょぜがもん)>ではじまり、<信受奉行(しんじゅぶぎょう)>で終る」とは、よく言われることであるが、世尊が、いつ、どこで説法し、その会座に誰がいたかといったことを記した「序文(じょぶん)」と教えの内容をなす主要部分としての「正宗分(しょうしゅうぶん)」と、その経説の宣布の委嘱などを含み、「聴くもの皆おおいに歓喜して、信受奉行せり」といった句で終る、「流通分(るつうぶん)」の三分よりなるのが通常の形式である。
この形式と照らし合わせると、『般若心経』には、如是我聞もないし、説時説処もないし、結びの部分もない。したがって形式的には、はなはだ不完全な経典だといわざるをえない。
抜粋、編集したものだから、前後がないものだとも考えられるし、エッセンスだけを説いているのだから、形式はどうでもよいということかも知れない。
しかし、漢訳七種のうちで、羅什訳と玄奘訳を除く五訳は、ちゃんと如是我聞等の序分や、流通分を具えている。一般にこの形式の整った方を、「大本」あるいは「広本」、中心部分だけのものを、「小本」あるいは「略本」とよんでいる。
この広略は漢訳だけのもの、つまり、漢訳に際して省いてしまったというわけではない。それはサンスクリット写本にも、広略二種あることで知られる。ただし、古い訳は皆略本なので、広本は形式を整えるため、後に増広されたものであろう。サンスクリットの写本のうち、小本の代表としては、わが国の法隆寺に伝わっている「貝葉本(ばいよう)」がある。
この写本は、現在帝室御物として国立上野博物館に保管されているが、日本の将来されたのが六〇九年といわれており、書体からみても、『般若心経』の写本としては現存最古のものである。
このほか、最澄や円仁も写本を持ち帰ったといわれている。いずれも原本は失われたが、それを転写したものが現代まで伝わっている。二人の名をとって『澄仁本』という。
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高崎直道著『般若心経の話』曹洞宗宗務庁発行 より
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