Sunday, July 24, 2016

アルトー館公演


 密教について

         神 秘 主 義
 
 密教の特徴の五つのうち、どれを第一番目に挙げるべきかということは問題ですけれども、何をおいてもやはり挙げておかなければいけないのは、神秘主義であろうかと思います。
 神秘主義であるということは、密教が、理論ではなくて宗教体験であるということです。それは、いわゆる大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)の一体、これらが本質的に一つであるということを直観する。マクロコスモスである宇宙、あるいは大自然と、ミクロコスモスである自分とが、本来的に一つであるということを宗教体験を通じて身につけることです。

 こういった考え方は、インドの思想、あるいはインドの宗教には共通して存在しているわけであります。バラモン教のほうでも、梵我一如’(ぼんがいちぎょ)といいます。つまり、梵というマクロコスモスと我というミクロコスモスが本来的に一つであることを知ることが大切だとされます。
 あるいはなにもバラモン教だけではなくて、仏教のなかにもやはりこの考え方があり、現実世界はそのまま理想世界であるという。あるいは、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という言葉にもこのことはあらわされています。たとえば、仏教では、法という言葉があります。この法という言葉はいろいろな意味を持っていますが、その一つに真理という意味がありますね。仏法というようなときの真理、あるいは仏の教えという意味があります。
 この真理という意味は、絶対の世界をあらわすわけです。仏法というようなときの法というのは、絶対の世界をあらわす場合と、それからもう一つは、仏教思想の特色をあらわす言葉として、諸法無我(しょほうむが)の場合があります。
 諸法無我という場合の法は、この絶対の世界の法ではありません。この場合の法は、現実世界という意味なんですね。現実世界に存在するものはそのまま固定的な実体すなわち
我がないんだと。だから、この法という意味には、絶対という意味と現実という二つの意味がある。このように西洋的な考え方では相反する二つの意味が同じ言葉になってあらわれているわけです。

 これは一例でございますけれども、仏教のなかでも、絶対がそのまま現象であるという考え方は伝統的にあるわけです。なにも密教になってから初めて出てきた考え方ではなくて、現象世界がそのまま絶対の世界であるということは、仏教の法という言葉そのものが、相反する両面を含んだ言葉であることからもわかります。
 こういうように、梵我一如’とか、法というものの二義性を考えましても、インド人の考え方のなかには、やっばり大宇宙と小宇宙は本質的に一つなんだという考え方があるのですね。
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 『密教とはなにか ー宇宙と人間ー』松長有慶 中公文庫 より

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