Friday, July 22, 2016

アルトー館公演


   
 9月公演のために 

        空 の 意味
 
 『般若経』の基本的教理というべき「五蘊皆空」ひいては「一切法が空』という主張が、実はアビダルマ哲学の「一切法有り」という学説への反論として成立したものであるということを前説で申し上げた。
 このように「有り」における「空」だからそれは「無い」というのと同じである。と考えられやすい。たしかに「心経」にも「無色・ないし、無意識界」と、一切法が無いということを述べている。ただし、それには「是の故に、空の中においては」という限定(条件)がついているので、そのことをあとで考えてみなければならないのであるが、まず、この「一切法は空」ということは、法はどんな点からいっても無い(存在しない)と言っているわけではない、ということを銘記しておいていただきたい。
 
 では、「空」とはどんな意味であるか。漢字の「空(くう)」は、日本語で、そら・から・むなし、などと読む。仏典のいう「空」もことばとしてはその何れにも通じる意味があるが、基本的にいえば、「から」というのが最も近い。

 仏典の「空」はこの場合、梵語で「シューニャ」という形容詞の翻訳である。(「空」=大空(おおぞら)は一般に「虚空(こくう)」と訳され原語も別である。しかし大空も、シューニャであるといえる)この「シューニヤ「というのは、たとえば風船の中味をふくらませた状態とか、武の茎など、中のうつろな状態をさして使われる。現代の科学知識でいえば、そこには空気は入っているといわなければならないが、古代人の考えでは、そして現代人の常識的なものいい方でも、そこは「空っぽ」である。つまり「シューニャ」とは中味のないこと、素質のないこと(たとえば木の幹ならば輪切りにしても、年輪を刻みこんだ木のイッパイつまったいるが、それと比べれば竹は中味が空である)をあらわす。その場合、風船は中味は空だが風船としてはそこにある。風船の存在まで否定されるわけではない。
 
 身近な例でいうと、「財布が空だ」という場合、財布はお金の入れ物でいくら財布だけあっても、お金がそこに入っていなければ無用のものである。その場合には、中味こそ大事なのであって、「空」には、あるべきもの、値うちのあるものがそこにない、つまり、無価値だという意味もある。「あいつは頭が空っぽだ」という場合などは、かなりこれに近い意味である。

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「法は空」であると経典が説くとき、その意味は「法には自性(じしょう)が無い」という意味であると教えられる。前に述べたように「法とは自性を保持するもの」というのが有部の与えた定義であったが、『般若経』などは、それを「法には自性がない。」というのだから、両者は真っ向から対立することになるのである。
 では「自性」とは何であるか。その原語は「自己存在」とも「固有の状態」あるいは「性質」とも訳せることばであるが、自己存在というとそれ自体で多の条件に左右されず発生の原因もなく、はじめから独立自存しているものと解釈できる。そんなものがいったいあるかしらと思われるであろうが、古代インド人の考えでは梵(ブラフマン)などは天地創造の主であり、天地のはじめから始終一貫して不変な存在であると考えられている。
 
 我(アートマン)も同様である。しかし、仏教にとっててはそういうものはない。すべては因縁によってできたのであるから、不安な自己存在はない。「般若経」では、このことをしばしば、「諸法は因縁所生」(縁起したもの)であるから、無自性である。無自性だから空である」と表現している。
 これに対し、有部でいう「自性」は「固有の性質」の意味である。たとえば、青という法(青いもの)は何時でも青い。それはたとい、一瞬ごちに滅したからといって変わることはない。
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                                      高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より

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