9月公演のために
シェイクスピア ヘルダー
登張正実訳
シェイクスピアは自分の前にも、また周囲にも。ギリシャ劇を形成したような国家風俗、行動、傾向、および歴史伝承の単純な原型を少しも見いださなかった。
従って、形而上学的第一の真理によれば、無は無を生むだけだというのだから、哲学者たちに身をゆだねていたのでは、この世にもはやギリシャ劇が生じなかったばかりではなく、おまけに無しかないというのであれば、およそ戯曲そのものが全然生まれなかったであろうし、生まれる可能性も無かったであろう。
ところが天才は周知のごとく哲学以上のものであり、創造者は分析者とは別ものであるゆえに、ここにひとりの人間が神才を賦与されて、まったく正反対の素材から、まったく違った作業によって、「恐怖と同情」という同じ働きを惹きおこした。
しかもこの両者を、かって第一の素材と作業がほとんど生みだしえなかったほ どに惹きおこしたのだ。これこそ自分の冒険にみごとに成功した神の子だ。ほかならぬこの新しい、最初の、まったくちがった要素が彼の天賦の根源力を示している。
シェクスピアは目の前に合唱隊は見いださなかったが、国家劇と人形芝居ならたぶ見いだしたであろう---------たぶん。だから彼は、この国家劇と人形芝居というじつにつまらぬ粘土から、今日われわれの前にあって生きているあの素晴らしいものを作ったのだ。
彼の見いだしたのは、単純な民族と祖国の性格などではなく、階級、生活様式、考え方、地方人と方言とが絡みあった複雑なものであった--------前者をいくら求めてもがき苦しんでもむだなことであったろう。彼はそれゆえ、さまざまな階級と人間を、もろもろの地方民とことば使いを、王と道化たち、道化たちと王とを試作して、すばらしい全体に作りあげた。
彼はギリシャに見るようなできごとや説話や筋の単純な精神を見いださなかった。彼ができごとを見たままに受けとり、創造精神をもって、じつに種々様々な材料を驚嘆すべき全体に組み立てた。これをわれわれは、ギリシャの意味で筋(ハンドルック 行為)と言わなくとも、中世の意味における所作(アクション)、あるいは近代後でいう事件(エベヌマン)、大きなできごとと呼びたい。
---- おお、アリストテレスよ、きみがいまこの地上にあらわれたなら、きみはどれほどかこのあらたなソポクレスをホメロス化することだろう。そうして、現在シェイクスピアの同国人であるホームとハード、ポープとジョンソンがまだものしていないシェイクスピアについての独自な理論を考え出すであろう。アリストテレスよ、きみの説く悲劇の要素、筋、性格、思想、表現、舞台、のどれからも、ちょうど三角形の底辺の二点から、目的点、完全性という上の一点で総合するように、どんな線でも引くことができるということをさぞ喜ぶだろう。
きみはソポクレスにむかって言うだろう、おまえはこの祭壇の聖像を描け、と。それから北方の詩人よ、おまえはこの神殿のいっさいの側面と壁面とを描いて不滅の壁面とせよ、と。
私を解説者ならびに吟誦詩人としてつづけさせてほしい。なぜなら私は、このギリシャ人のソポクレスにたいしてよりは、シェイクスピアのほうに近いのだから。このギリシャ人において筋といういうひとつのことが支配しているとすれば、シェイクスピアは、あるできごと、ある事件の全体をめざして創作している。
前者においてもろもろの性格から成るひとつの調子が支配しているとすれば、後者においては、あらゆる性格と階級と生活様式が、彼の演奏の主たる調べを織りなすだけの力と必要があるかぎり、あますところなく働いている。
前者のなかに、ひとつの歌う美しい言語が高い空のなかににひびくように鳴り響いているとすれば、後者はあらゆる年齢と人間と人間の種類との言語を語り、自然の告げるあらゆることばの通訳者である------そしてちがった道をたどりながら、両者ともに同一の神の寵児ではないか。
前者がギリシャ人を前に据えて、教え、感動させ、教育するとすれば、シェクスオイアが教え、感動させ、教育するのは北方の人間たちだ。彼を読むたびに、私には劇場も俳優も書割も消え失せてしまう。迫りくるのはただ、さまざまな事件の、摂理の、世界の書の、時代の嵐のなかを吹きまくる一頁一頁だけなのだ--------いろんな国民、階級、魂の個々の鋳型だけなのだ。
それらはすべて、きわめて多種多様な、およそ別々に動く機械であり、すべて、------われわれは世界創造者の手中にあるということを--------自覚することなく盲目的に、ひとつの演劇像の全体、大きさを持ち、詩人だけの見渡せるひとつの事件の全体を構成する道具なのだ。北方人のなかで、そしてこの時代において、これ以上に偉大な詩人をだれが思いうかべることができよう。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(中央公論社「世界の名著」より)
No comments:
Post a Comment