Thursday, August 06, 2015
10月公演のために
10月公演のために
Wednesday, August 05, 2015
10月公演のために
10月公演のために
Monday, November 17, 2014
再度の投稿に当たって
随分ながい間、このブログに投稿せずにおりましたが、それはシュウ ウエムラの伝記をを出版することを(株)シュウ ウエムラ化粧品から依頼され、それを七月堂から出版するまでに4ケ年も経りました。そして出版後の疲労から回復するのに、さらに1年半も要しました。
『シュウ ウエムラ』という1冊の本を出すのにそれほどの年月をかけるのは、自分の人生をそれだけ削ることと同じことになる、という現実もあるのですが、シュウ ウエムラが日本の文化とアートにどれほど貢献したかを確認し、その恩返しとしていろいろ考えながら関連事項を調査し、思考し、文章に纏め上げるという作業は、結局自分のためでもあり、それを書物として出版することも社会的なことだ、と思ったのです。
なぜ、こんなことを言うのかというと、今は新書のベストセラーの書き手は、1册の新書を出すのに2ケ月以上かけて仕上げ、もしそれがベストセラーにならないばあいは赤字になる、という現実の条件の下に立って書作しているのです。
この七月堂から出版された本は新書ではなく単行本ですが、(株)シュウ ウエムラ化粧品や、日本メイクアップ協会からの援助があったから出来たものの、それが4年も経過すれば常識が外れているので、大きな赤字が著者に残ることになるのが必定。
しかし、それとは別に、これからの暫くの間、このブログをその本の余録として、シュウ ウエムラを背に、今の日本の文化と芸術の方向性を探りながら他者に語りかけて行きたい。
Thursday, May 20, 2010
マイムとパントマイムの違い
マイム
Monday, November 23, 2009
豊島重之氏の『マウストmouthed』公演
Saturday, October 31, 2009
かもめマシーン(12)
3)萩原氏の「かもめマシーン」
チェーホフの『かもめ』とハイナーミュラーの『ハムレットマシーン』との繋がりは、だいたい推測できたと思います。
が、果たしてそのような結びつきを考えた上で、萩原氏が「かもめマシーン」を自分の劇団名としたかどうか分かりません。
しかし、彼が上演した『家族』を観た限りでは、テキストを大切にしていると同時に、それを再現するにあたって、ハイナー・ミュラーやロバート・ウィルソンなどの手法を頭のどこかに置いていたように思われます。
ステージに配置する役者の幾何学的構図
舞台ぜんたいの方角的な使い方
断片化したセリフのやり取り
会話の論理的な進展と、突然の頓挫
沈黙の場の息使い
薄明の中に浮かぶ赤いランプの光
精神病者の言葉にならない声
ラジカセから聞こえる外部の音楽
『家族』は家庭劇ではあるが、家族間の交流は閉ざされていて、外界は空間的には遮断されているのに家族に死刑犯が生じたために、外界からの空気の圧力が強く、家族全員が死に隣接したいのちの淵に立たされている。
そのあたりがチェーホフの『かもめ』とハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン]がのぞく世界と共通したものがあるような気がします。
演劇は“実”から“虚”の世界へ踏み込むことですが、その踏み込む跳躍のエネルギーが演劇の歴史の上の世代によってそれぞれ違う。
1997年以降に演劇の世界に入った人たちは、それを軽やかに飛び越えているように見える。
それは虚の世界と実の世界が平面化したコンピュータ世代の特徴かとも思うが、サブカルチャーの動きのせいもあって、日本の風土がじかに身に付いて、芸術の「形式」において底辺から変革が行なわれつつあるような気がします。
最後に、前にも触れましたが、「集団」のつくり方が求められる時代になってきたように思います。それは、芝居づくりをする時の集団の力の配分と言ってもいいでしょう。演出についても、すでに独裁的な演出家の時代ではないような気がする。
もし天才的な演出家がいたとしても、一人の才能では間に合わないものが今は演劇に対して求められてきている。それは脚本、美術、映像、音楽のそれぞれが芝居の中心的な部分に入って来ることが要求されており、各部門がこれまでのような一人の演出家のスタッフとして協力すれば済む段階を越えてしまっている。
これまでの劇団づくりとスタッフへの依頼の時代から、緩やかな集団づくりと同時に、関連する学問、芸術分野の研究体制をこそ考慮すべき時代となったような気がします。
かもめマシーン(11)
Thursday, October 29, 2009
かもめマシーン(10)
Wednesday, October 28, 2009
かもめマシーン(9)
Tuesday, September 08, 2009
かもめマシーン(8)
Tuesday, August 18, 2009
かもめマシーン(7)
Monday, August 17, 2009
かもめマシーン(6)
Friday, August 14, 2009
かもめマシーン(5)
Wednesday, August 12, 2009
かもめマシーン(4)
肉体的により緊密な固まりとして約束された家族という結合体を中心に演じられる芝居だからのでしょう。
この劇をつくる発端は作家、萩原慶太の死刑制度です。
この作家によってあらためて呼び起こされた“生と死への感触”に向って、俳優たちがそれぞれの役を担ったのでしょうか。
だが、この芝居の特徴はそれを表現する身体と言語による表層的な技術にあったようです。そのテーマを観念的なセリフでやりとりでするのでなく、語句または演技を諸制約によって配置し、オブジェ化し、線とフォルムを簡潔にすると同時に、始めてそこに現れたようにしている。
そのことによって、表面的に描かれる一方、その表に現れた意味性を越えて、深層の心理構造を垣間見せてくれるのです。
これこそが、20世紀の初め以来、あらゆる芸術が試みてきた芸術形式なるもので、その本質を突いているように思われます。
しかし、形式と言っても、それはパサージュや色彩や、灰色の効果または空間構造、ことばと演技による描写、かたちと光と影による交錯のあとに、今は“物への触覚的な探索”が中心となってきたのではないでしょうか。
それには、始まりとしての“もの”。つまりオブジェの問題があり、それを描く“はじめての線”、無意識から引きだされる“はじめての意識化(アウェアネス 気付きの心)”、それに本質的なヴァルールとしての<濃淡や明暗の度合い>が重要な要素となるのでしょう。
この芝居の室内に置かれた“赤い花”が、重要な場面転換で、その濃淡と明暗の度合いを微妙に変化させてゆく演出効果は、そのことをシンボリックに表出していました。
かもめマシーン(3)
無意識ということ、潜在するもの。あわよくば意識化されて表面に浮かび立とうとするもの。
全てが、すべての実体がなぜか目の前から遠く去ってゆく。そして、そこにあいまいに動いて残されているもの。かたちを構築しようと、方向をねらっているもの。それが残された生命の“意”というものか。
遠近法を越えて、直ぐ目の前の中央のソファに、沈黙だけを演じる役の人物を放り出し、それがこのドラマを一貫するオブジェ化のシンボルとなっているのだが。あとは、それを後方に取り巻く幾何学的な構図の上に登場人物が位置することになる。細密化する意識の場の緊張から、分子構造がそのまま方位的な力学として投射されているように見える。
一つの鍵になることば。モ ド ヴァルール(Mot de valeur 価値のある言葉、実質のある言葉)。たとえば、この芝居では被害者の屍体が埋められてあった場所の“観覧車”ということば。また、家族の一員である被告人を指す代名詞。
それらのことばが、曖昧にゆれては消えてゆく事象の中で、突然ふっと浮き立つと、内側から湧き起こった意念が、急激にそれにしがみ付いてゆく。
それは立体派のブラックやピカソが辿った道をとっているのではない。すべてが細密化して見える感覚の底に、分子構造のゆれが、こころの奥に見え隠れしているからなのだをろう。そのコンポジションは台本のモチーフから、しぜんと作られたものだろう。
この芝居の俳優たちは、すべて“演劇ごっこ”をしていない。じぶんの体の内部を観察しながら、観せるためでなく、自らに演じている。これが上に述べたような演出効果のたしかな支えとなっている。
かもめマシーン(2)
そのシンボルとして、芝居の初めから終りまで一言も語らず、居間として設定されたステージにしばしば登場しては、その中心にある陥没したソファにからだを沈めては黙り込むだけの人物の役が置かれていたのだろう。
芝居は当てもなく何かはっきりした対象、または概念を、というよりいろいろな関係性の中での明確な意味と価値を持つものを捜していた。それがミステリアスな雰囲気を纏っていた理由なのだろう。
この芝居は感情的なドラマを求めているのではない。しかし確実な存在感というより、ぼんやりとしたミステリアスな関係性の中に、命のひらめきが危うく消えかかっているのを感じる。
事物と表象の中間に置かれた身体の、その内側のもつれた感覚から生まれるイメージだけが実感として存在しているのだ。それこそが唯一支えられる触覚的な感性だ、というかのように。
私はここまで書いて、チラシに書かれた筋書きを始めて見る。それは以下の通りである。
その街では3年前に事件が起こった。たしかに、筋書きはそうなのだろう。それを今始めて明確に知る。また配役を見るといくつかの思い違いがあった。それほど表面的な事実というもは不確かなものなのだ。
幼女2人が殺害され、遺体は観覧車の下から見つかった。
未成年の犯人が逮捕されると、マスコミの報道は加熱したが、しばらくすれば人々はその事件を忘れ去った。裁判は進み、どうやら彼には死刑の判決が下るようだ。
家族は70年代に建築されたその街の団地にひっそりと住んでいる。
観覧車はもうそろそろリニューアルオープンされる。
判決が下るまでにはまだ時間がかかるらしい。
絵画が描かれる内容の主題より、色と形とそれらの混合した関係性で作り出されるものだが、それと同じようにこの芝居づくりの本当の狙いは、そのドラマを描く素材、その動きと語りの物質的な関係性のなかに、萩原雄太の創作の真の意図があるのではないかと思う。
私はそれだけをこの芝居の中に捜し求めていたのだ。
私は、ラカンがポーの小説を対象にして精神分析で読解した「盗まれた手紙」のように、この芝居に当たろうとしていたのかもしれない。
かもめマシーン(1)
この作品の話術について語りたいのだが、それには“からだの動き”の分類から話した方がいいようです。マイムの技術用語を使うのでフランス語になりますが、英語で推測される範囲内です。
いわゆる“動き”という概念を大文字のMouvement(ムーヴマン)とすると、以下のように3つの様態に分類されます。
- geste(ジェスト からだの1部分が動くとき)
- attitude(アチチュード からだの内側と外側との関係から体全体でつくる形または型。それは停止の内に過去と未来の動きを含む)
- 小文字のmouvement(ムーヴマン 空間的にA地点からB地点に移動するばあい。歩行、跳躍、飛翔によって)
そのことから推して、私の言い方をすると、“舞踏”はアチチュードのダンスなのです。それは空間の中にからだを素材として動き(mouvement ムーブマン)を描く、それまでのダンスの創作法とは違っています。跳躍して空間的に移動することが無いのです。
私はここで萩原雄太のこの「家族」という作品は、からだの空間の配置もそうであるが、まず話術を主体とする“アチチュードの演劇”を作り出している、と思うのです。
それはどういうことかと言うと、会話の文章がつねに完結せずに、動きのattitudeのような体言止まりで、そうでなければそれに付属されたgesteのような副詞、あるいは接続詞の後はぷつりと切れて、沈黙の時間となる。そして時間的なmouvementといえば、知能の廻らない娘役のセリフ、言葉にならない断絶した音の連続なのです。
孤立した、動きのアチチュードまたはセリフの体言というものは何を指しているのか。それは人間の「立ち位置」、“存在”に焦点を合わせているからなのでしょう。
「かもめマシーン」という劇団名は、チェーホフの作品「かもめ」から取っているそうです。それとマシーンはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」から来ているに違いないのですが、そのあたりから迫って行かないと、この作品を解読出来ないのかもしれません。