Wednesday, January 28, 2009

豊島重之(5)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
             ー人は健康をのぞむように、心の病から救われるべきなのだー

 “気“とは、宇宙が活動する電磁波のエネルギーと考えられれるし、身体自体も一塊の“エネルギー体”として捉えられ、スピリチュアルな面から見れば、“魂”を持った生物体なのだ。その“魂”が肉に浸透した状態を“魄”といい、2つを合わせて“魂魄(コンパク)”と称してきた。
 古代からの日本は、アニミズムの宗教観を持っている。外気、または自然の中にひそむ霊気(カミ)と通じ合う生き方で、意識の働きのまとまりとして“精神”は、“魂”とは別のものとして捉えられている。

 からだ全体の機能的な役割を考えたばあい、大脳は思考、感情、感覚、直観の判断機能の中でも特に思考の場所と考えられ、目は五感の中でぜんたいを統御するものであり、心臓は五臟六腑を統括する器官として考えられている。
 中国から伝えられた“養生学”では、五臟の中でも肝臓がは魂”、肺臓は“魄”、心臓は“精神”が宿る器官として捉えられてきた。脾臓はこのエネルギー体の中では、生命の力としての“意”の役割を担い、大脳の「志向性」と連れば「意志」、地からのエネルギーを結集した腎臓の「欲望」と結ばれて「意欲」となる。

 しかし、物事を便利にするために、このように特定の対象に部分的な役割を与え、機能的な解釈を行なうということは、より大切なものを見失うことにもなる、という事に気付きはじめたのである。
 大脳皮質の中の「運動野」「感覚野」に対しても同じことである。
 アルトーの「器官なき身体」からもいろいろな解釈の道が取り出され、それを逆転させたジジェクの「身体なき器官」という、今のウェブ時代を風刺する批評概念も生まれている。五線譜に書けないもの、共通のアプリケーションを超えた、個的な通路を求めはじめているのである。

 科学で未だ証明されていない霊性の世界は、われわれにとって未開発の分野であるが、それを直観だけで安易なヒーリングの道具として使うのは危険が伴う。
 心の病は、感情のコンプレックスから生じる。悪性の気の流れと、局所への凝結が原因と思われるが、原因が大脳だけの問題だとすることは間違いなのである。心は、内蔵の各器官にも分散しており、その上、自分をとりまく環境との関わりにおいてもつくられる。

 心の病を持つ人が、社会から、また家庭から分離されて一時的に治癒されたと見えても、社会状況が政治的に替えられず、その家庭での関係がそのままなら、病状はまた元に戻る。
 おそらく豊島氏は、理論だけの、経験のない、安易なユートピア的なセラピーやヒーリングに対しては、反対の立場に立つている。豊島重之氏の精神医師としての心情と構想が、この作品のなかに籠められている。

 生命の根である“意”への重視と社会に対する政治的な攻勢。氏のコピーの中に見られる「生ー政治学的な古層」という用語は、そのことを証すると同時に、フーコーの“エピステーメ“の世界を彷彿させる。


 この作品でいちばん思いがけなかったのは、ダンサー、田島千征さんの微笑みの演技でした。
 あれはこの作品の中でどういう意味があったのかが、この作品の意味を解く一つの鍵のような気もするのです。
 一見、その作られたような微笑みの演技は、田島さんの独創ではないようです。演出の豊島氏といろいろ2人でその表情術を試していたようですから。
 あれは“タオ”の「内笑微笑」に通ずるものです。それとは別に豊島氏が発想し、田島さんにひとつの目的のために提案されたのでしょうが、そこに至る経緯が推測されるのです。
 それには先ず、“タオ”の「内笑微笑」の方法から説明しておいた方が納得できると思いますので、以下にその仕法を順を追って説明致しましょう。
 
 まず、目の前の90㎝ほどのあたりに微笑みの対象のイメージを浮かべます。その結果、表情に表れた微笑みの気を“第三の目”である眉間のツボから吸い込むように下方へと、胸腺から心包(胸部の中心にある心臓センター)へと下方に降ろし、“微笑み”を吹きかけるようにしながら次々と各器官に移し換えてゆく。この心包から次の肺あたりが、狙いの効果の中心なのですが、体内の五臟からつづいて六腑、さらに大脳の各部と脊髄の各部の“腺“の上を、一つづづ進んで、最後に下丹田に収めるというやり方なのです。
 これは体内の臓器と腺に微笑みかけて、生活のストレスから生じた邪気をそこから脱ぎ払って、否定的なエネルギーを肯定的なエネルギーに変換しようとするもので、じっさいに大変効果のあるものと評価されています。

 ですが、豊島氏の意図で作品の中で演じられた田島さんの演技は、結果としてはこのタオの「内笑瞑想」の微笑みの手法と似ているのですが、それは豊島氏の精神医としての経験から産み出された独自の手法なのだと思います。
 つまり、患者の心の悩みを払底させるために、この方法が効果があるという、規定の治療法があってのことでなくいのです。患者の感情のコンプレックスを解くための方法を見出したという以前に、長年患者を診察していた間に築かれた人生哲学から生じたものだと思うのです。治療よりも患者の生き方の方が大事だという観点です。

 それと同時に、演劇は、とかく愛と憎しみとの、世情の混乱の中での葛藤を演じるのが常なのですが、この作品においては、それらの日常的な感情の次元を超越したかたちで各種の演技が提出されていますが、これも患者との診察経験の上から発想されたもののような気がするのです。
 その超越の標として“微笑み“が使われているのでしょうか。あるいは、メイエルホリドの消え行く生命に対比するものとして、あのような微笑みの場面が必要だったのでしょうか。

 医師は“仁徳”を先ず心がけなくてはいけないと言われます。ですが、患者の閉ざされたこころを開くのは“徳”のモラルだと気付いたのかもしれません。タオでもこの“徳”のモラルを引き出すために、心臓センターに“微笑み”で働きかけているのです。それにつづいて“同情”ではなく“共感”の心としての“慈悲”がその背後に潜んでいるような気配がするのです。それは愛憎の愛とは違って憎しみの方、排除や怒り、殺意と相対するするものです。

 “徳”とか“慈悲”とかの言葉は、儒教とか仏教の教えを思い出させるものですが、これらの概念を科学的に再考する必要があるのでしょう。
 要するに、「解剖学」を土台にした脳や内蔵を対象とした“形態学”の時代から、「分子生物学」を出発点とした“大脳科学”の時代に移行したということです。
 また、意識を“指向性”の側から捉えていることです。“微笑み”が感情を逆転させているように、“眼球の動き“が演出家の思考と構想を自由に転じさせているのです。
 豊島氏のばあい、バタイユの「眼球」がここで生かされているのです。
 

Saturday, January 24, 2009

豊島重之(4)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
             ー劇場空間が即、社会学の“場”なのだー

 よく考えてみると、豊島重之氏のこの作品は、演劇形式をとりながら、動きとセリフが分離されて、また俳優が相互にドラマティックに絡み合うこともなく、各場面がそれぞれ切断されていて劇的誇張がない。
俳優の表現が、すべて日常的な行動の次元を土台にしているのです。
 
 その上、流れのぜんたいの構成と、俳優の立つ位置の空間布置が、関係性を超えた一つの“磁場”をつくり出しています。テクストによる台本をベースにしているのではなく、構成と配置が演出によって操作されている。

 俳優はそれぞれ、狭められた自由さの中で、その物質的な場と関わりながら、自然らしさを持って、“真実”を表出し、それが記録的な他者の口述と平行してすすめられて行く。

 先に、スターリンに相応する役の俳優がステージの中央に屹立し、権力としての光を壁を背にした俳優に向って投射している、と表現しました。しかし、それは劇的な空間配置と、俳優の身体的な構え、読み上げられる文章のシンタックスから受ける意味性と、光の一方的な投射方法によって感じ取られた印象なのです。
 
 もし、それを劇的な解釈を抜きにして客観的に観た場合には、スターリンに相応する役を演じた若い女性の秋山容子さんは、べつに厳めしい演技をしていたわけでもなく、普段着のまま普通に真っ直ぐ立って、相手を撮影するためにカメラを構えたポーズに過ぎないのです。
 
 ということは、この作品は社会状況を“演劇空間”として捉えるギアツの社会学の方法とは、ちょうど逆の方向からの観察法なのです。つまり、演劇をテキストから分離させて、トポロジカルな配置において、現実の社会の中枢権力とメディアによって絡めとられた、限定された自由の状況を描きだすためにとられた、演劇空間を使用した社会学の“場”なのです。

 
「権力と自由」、あるいは「自由と平等」の関係が語られた段階から、ロールズの『正義論』を機に、“公正”としての意味での自由が討論され、それが人間の根源的な“こころ”の問題へと移行して行ったのです。
 これらは「分析哲学」の言語による明晰化の動力方向性なのでしょうが、人間のモラル(徳)の“正義”、“愛(慈悲)“、あるいはギリシャ以来の哲学用語である“善”とか“真実”という概念が再検討されることになったのです。そして最終的には、これまで曖昧にされていた“神”と霊”の合一と分離、“心”と“精神”の区分けまでが論議されることにもなっているのです。

 “自由”に対する制約を出来る限り取り除こうとするアメリカの1980年代以来の“新自由主義”と“グローバリゼーション”の破綻が見えてきた現在、改めて“自由“の問題が、その限界線において生命と絡んだかたちで捉え直されることになったのでしょう。
 しかも、それはあくまでも現実的な政治的な尺度の上で語られなくてはいけないわけです。豊島氏がこの公演のチラシのコピーで「ーーー イメージの底をぶち抜いて、その形姿の根源に「微光」を掘削すること。そこには生ー政治学的な古層、いわば深海の発光体=イリュミオールがーーーーーー」と、「生ー政治学的な古層」という言葉を使用しているのは、そこから出ているのでしょう。
 ちなみに、豊島氏のアーティストとしての政治的なスタンスはポストモダンの経過を踏んだ「差異の政治」の側にいると判断します。たとえば、サイード、スピヴァク、バトラーなどのような、“ポストコロニアル的な理性批判“を持ったアーティストだと思うのです。

 日本にドイツからモダンダンスを移植した江口隆哉氏の下で、学校ダンスの制約に屈しなかった2人のダンサーがいます。ひとりは大野一雄氏で、もう一人は豊島重之氏の実姉の豊島和子さんだと、私は思うのです。モレキュラー シアターの俳優すべては、この和子さんのお弟子さんなのです。
 豊島重之氏は仙台の東北大学の医学部の学生時代に、休みを利用して横浜の大野一雄氏のスタジオに稽古を受けに行ったことがあるそうです。あらかじめ電話をし、慶人さんが上星川の駅に出迎え、あの長い坂道を登って行ったということです。これも新宿で出合ったときの話です。

Saturday, January 17, 2009

豊島重之(3)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
             ー“光面“としての白い壁ー
 
 白い壁は、あらゆる色の光りを四方に乱反射させる。
 スターリンと想定される人物が投射する白色光。白壁を背にした俳優の表情と姿態を、それが余すところなく浮き出させた。それに反して、光を投じられた側からは投射するスターリンの顔は見えない。微動だにしない権威者の影が目に映るだけ。その背後から、他人の声で、自分の上申書のエクリチュールが分節化され、息苦しく読み上げられてゆく。

 そこで、観客として感じとられるのは、演者が空間も、視覚も、セリフも剥ぎ取られている、ということである。ただ、白壁の上に投射されたスライド写真の中の人物だけは、固定された実像なのだが。
 上体がやがて静かに持ち上がる。揺れる。腕がゆっくり放れてゆく。掌と指のかすかな動きがひとりの人間の、それはメイエルホリドなのだが、残された、少ない、命(いのち)の時間への標と見える。

 これは演劇の解体、デリダの「脱構築」の仕組み、工作のようだ。しかし、「脱構築」というが、ポストモダンのオルタナティヴ、あるいは折衷主義とは違う。
 ポストモダンが、モダンを前にすすめるものとすると、モダンから後ろに退けるプレモダンなのだろう。

 最初のメイエルホリド役の俳優が長時間、上体を前に屈めたままで頭を前に向けているポーズは、あれは中国古代の“気功”の最初の「亀のポーズ」なのだ。それに、エクリチュールを記号化しながらも、魔術的な音声言語としている。それはデリダの『声と現象』の論とは別の方法である。

 また、『グラマトロジー』の「差延」はデリダの「差異」に関する新解釈から生まれた哲学用語であるが、それに対して豊島氏のこの作品のばあいは、『イリュミオール・イリュシオール』のタイトルが示すように、魔術と詩想の光(イリュミナシオン)による、人間の自由をテーマにした幻灯演劇のように見える。また、見方によっては、魔術の世界に新しい「身体療法」への科学の通路を探っているようにも思われる。


 私が小学生の時、正月に「鶴は千年、亀は万年」という細い色紙が茶の間の柱にかけられていたのだが、それを見た記憶が何時までも脅迫的に私の心に残っているのは、その記憶と組み合わせで思いだされることがあるからです。ちょうどその頃、町内の同じ年頃の子が、近くの貯水池でスケートをしていて、氷の割れ目から氷下に落ち込め、そのまま死亡した騒ぎがあったからです。

 「亀のポーズ」というのは、ちょうどお相撲の構えのポーズに似ている。その時、背骨を真っ直ぐにするのがコツのようだが、脊髄にエネルぎーを集結させるのだろう。「鶴のポーズ」は太極拳の中に“白鶴亮翅(はっかくりょうし)“の「白い鶴が羽を拡げるポーズ」として残っています。亀のポーズは中国拳法の稽古で似たようなものをやりますが、その原型がやっと中国の少数民族の間から発見されたと、津村喬さんから教わりました。亀も鶴も二つとも、第1頸椎と頭骸骨との間のツボを刺激する方法なのですが、鶴のばあいは、顎を引いて、頭部を上から吊るされるようにするのです。その同じツボの操作で亀は万年も、鶴は千年も生きるエネルギーを持っている、ということでしょうか。

 メイエルホリドの役は最初、私は「ああ、イケメンの男優が演じている」と観ていました。しばらくして立ち上がって、横顔になった時にそれが女優の大久保一恵さんだと分かったのです。私は多少驚いたのです。なぜなら、宝塚歌劇を観ても分かる通り、男が女形をやれても、女は男になるのは難しいようです。白州正子さんも永いこと本格的に能をやられていて、結局は止められたのは、男の筋肉でなくては耐えられなかったからだそうです。大久保さんがメイエルホリドに成りきれたのは、亀のポーズから始まったからかもしれませんね。

 そう言えば、新宿での豊島さんとのミーティングのとき、前述の津村喬さんの話も出ました。豊島重之さんと高沢利栄さんのICANOFが主催した、昨年夏の「68-72※世界革命※典」のグラビアが、雑誌「桿 HAN 特集1968」創刊号(発行所 白順社)の巻頭に紹介されていますが、それにつづいて掲載されている津村喬さんの論『反逆にはやっぱり道理がある』は、気功を通じて中国の「文化革命」当時の政治的状況がよく描かれています。
 豊島さんはかっての津村喬さんの活躍をよく知っていて、その詳論活動の内容を語ってくれましたが、60年安保以来、丸山真男、吉本隆明から津村喬へと時代の指針のバトンが渡されていたのに、なぜ中国の気功世界の真唯中に飛び込んでしまったのでしょうか。

 昨年末、はじめてお会いしたとき、失礼とは存じながら「気功はそんなに面白いですか?」と、冗談のように不躾な質問をしましたところ、ただ黙って笑みを浮かべていらっしゃいました。
 そして、正月の挨拶のメールには以下のことが述べられていました。
 
「気功を始めたのは16歳の時で21、2で本を書いて評論家になるよりも先でした。中国の激動に苦しみながら、結局どんな政治潮流よりも気功と太極拳をひっそりと続けていく庶民に中国民衆の原像を見いだして行った次第です。それでももう一度はっきり自覚をしてその中に入っていったのはやはり70年代後半以降のことですから、先生とも「方向転換」を共有しているかも知れません。私の著書はいろいろありますが、先生のホームページに書かれた物を拝読して、まずこれをお渡ししてと真紀子に頼んだ次第です。」
 
 戴いた著作本は『気功的生活』(発行 同友館)という、こころの暖まる随筆集です。それにお礼のメールを差し上げたのです。真紀子というのはダンサーのオトギノマキコのことです。二人とも京都で生活しているようです。先生と言われていますが、私が津村さんより先に生まれているからだけのことです。

Wednesday, January 14, 2009

豊島重之(2)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 
             ーすべてが、波動なのだー
 
 ステージで、ということは無音の観客の前で、じっとしていることは辛いことだ。私自身も最初のマイム公演のとき、それをつくづく感じた。一時間あまり音楽なしで、緊迫した空間の中で演技し続けるということも、全く恐ろしいことである。それに反面して、そのような時に音楽というものはどれだけ自分の思いと動きを触発し、励ましてくれることか。正しく登山者が山中に湧き水を見出したときに感じるようなものである。

 この作品の最初の出演者の出だしの演技を観ながら、そんな自分の過去の経験を振り返ってみたりした。
それにしても、いま目にしている俳優は最も辛い姿勢のままでじっと立ち続けているのである。そんな時、からだが雁字搦めになってどう仕様もなくなっている時、人は宇宙の波動を感じるものなのだ。
 じぶんの“脈”と通じるような、“呼吸“と合っているような反しているような。空気の圧力とその中に微かに感じとれる微粒子の電磁波の一種かもしれない“気”の流れも。

 正面の白い壁を背に無理な姿勢で立たされているその前に、ちょうどステージの空間の中央に当たる箇所に一人の女性が、照明の投射機を抱えて屹立したまま、前面の身を屈めている俳優に光を投射している。
 口述が息苦しく聞こえる。客席の最前列に位置するナレーターによって語られていく。口述がすすむにつれ、前面の演技者はメイエルホリドの役であり、ステージ中央に立つ女性はスターリンに相応することが判明する。そして延々と口述されるその上申書の内容は、メイエルホリド自身の演出家としての良心から湧出される自由な表現に関する切々とした弁明なのである。

 しかし、自我を神のごとき絶対なものとするスターリンの側からは、個人の自由な発想など許される筈はない。すべては自分の意のままにすすめること、それが彼の共産主義の意図なのだ。
 自由を失われた世界。それが、この豊島演出では三次元の空間が失われた世界なのである。空間の中央に位置するの者は、唯ひとり“光”を保持するスターリンのみで、この後につづく全ての俳優は三面の壁の上の二次元の世界にいるだけである。

 “光”は生きている間にだけ(壁の前で演じている時だけ)、過去の記憶としての、写真の中に実像として動くだけである。ここで凝縮して感じられるものは、光も、呼吸も、脈拍も、又、セリフの音波も、すべて“波動”なのである。

 
 ここで思い出しましたのは、新宿で豊島さんとの会話の中に出た一つの、今度ノーベル賞を受賞した南部陽一郎氏の「対称性の破れから物質が発生する」ということでした。
その時「南部さんは盛岡の南部の一族なんですよ」と私が言ったらば、同じ八戸南部に住んでいる豊島さんとしても、それは初耳のようでした。
 「盛岡南部は別地として、福井の永平寺の傍の大野というところに領地を持っていたのです。南部陽一郎氏はそこで生まれたのです」

 私は妙なきっかけで、と言ってっも多少の縁はあったのですが、陽一郎氏の従妹に当たる方と親しんでいたのです。妙なことで会ったというのは、彼女は偶然にも家の近くで小さな「依託の古着屋さん」の店を出していたのです。店前に置いてある小物が気に入って購入してから、時々立ち寄って話しているうちに、その女性は南部さんという人だと分かったのです。
 「もしかしたら、盛岡の南部さんじゃないですか」と聞いたところ、「なぜですか?」とちょっと驚いた風でした。

 陽一郎氏の若い頃の顔もそうですが、この一族は皆ゆったりとした特徴のある良い顔なのです。名前を訊いたら「明美です」という。「嘘おっしゃい!」と笑って受付けなかったら、「じつは“明美“という名前が好きでそれを使っているんです。本名はお店の名と同じです」という。
 どこか、学校の数学の教師をしていたそうですが、人間関係が嫌になって、今はデザインの仕事を店の奥でやっていて、古着の売り上げは野良猫のエサ代と、あとは社会奉仕としてどこかに寄付をつづけているそうです。

 彼女は下町のマンションにつつましく一人で暮らしているのですが、時々掘り出し物が店に置いてあったのは、知り合いの“シロガネーゼ”に依頼して店に出したものだったようです。
 忠臣蔵の「南部坂の別れ」の坂には南部家の上屋敷があった処で、港区の「有栖川公園」は下屋敷だった処なのです。「今はもう何も無いです」と微笑みながら語ってくれたのですが、戦前ならば、彼女は“伯爵令嬢”なのです。

Tuesday, January 13, 2009

豊島重之(1)

 「illumiole illuciole」
   2008年11月9日、於:月島、旭倉庫 TEMPORARY CONTEMPORARYにて所見 ー1ー
 
 これは昨年11月9日に観た作品のことなのだから、今になってブログに書き込むなんて、おかしなことなのですが。
でも、これについてはすでに、公演あとに5日間に亘って書き済みで、「下書き」として保管してありました。しかし、
いろいろ考え過ぎて、そのままの状態で放って置きながら、何時も頭のどこかで気になっておりました。
 それが年末になって突然、高沢利栄さんから電話がありました。「いま、豊島重之といっしょに東京に出て来ていますが、会えないでしょうか」。宇野邦一さんの台本の、勅使川原三郎のシアターXでの公演のための上京の翌日のことでした。

 突然のことだったが、早速新宿の中村屋のカフェで待ち合わせることになった。在京中のご子息も一緒に見えて、そのあと場所を新宿南口の駅ビルの中の店に移動して、ビールを飲みながら話がつづいたのです。
 豊島氏はつねに、時間と地域性に追い込まれ、つねに性急に問題の核心に迫って討論しがちなのですが、すべてが散発的な私との場合はそうも行かないようで、結局まとまりの付かない話になってしまうのです。

 今になってはもう、その時に何を話したのか分からなくなってしまった状態なのですが、永いこと接触が途絶えていた豊島氏が今どのあたりに居て、ものを考えているかが朧げに分かってきたような気もするのです。
 あの3日間の公演の内容と、演劇論の「アフタートーク」については、私は1日だけの参加だったので、正直なところ了解しかねている部分もあるのですが、自分としては、直観として何が目的であのように作品が布石されていたかは推測できた積もりでいたし、その後八戸から送って来られた3枚の新聞批評コピーを参考にしながら、私なりの、あの作品をベースにしての、作品批評ならぬ豊島論を、このブログにおいて何回かにわたって展開して行きたいと思います。

 今日は、その導入部になるのですが、先ずその解析的な方向性を示しておきましょう。
 豊島重之氏は、これまで精神医学の立場を軸に、言語学とフランスの現代思想を方法手段としてやってきたのですが、時代の流れを観るのに聡い彼としては、現在注目されている脳科学の最前線と量子力学の新たな発見に目を向けはじめています。  
 しかも、決定的なことは、脳と身体との対比から、こころの定義を脳と身体からも拡張して捉えるようになったことでしょう。
 それは、おそらくドーキンスの生態学的アプローチの影響によるのかもしれないが、たとえばドーキンスが蜘蛛の巣が蜘蛛にとってそのまま、こころの表れとしての生活様態だとするならば、人間にとっての言語を手段としたウェブの世界も、さらに動きと言語を手段とした演劇も即、“こころ”の様態だということができる訳です。

 そして、それはまた一方で、人間と環境との繋がりを行為によって展開してゆくアフォーダンス(環境が生体に対して行為の可能性を提供する)の文脈でもあるのです。ここにおいて、“こころ”は脳の中に閉ざされた段階から、身体各部の内蔵に分散され、しかも環境への繋がりの行為として延長されてゆく。しかも、宇宙の“波動”と“光”がそれに及ぶときどうなるかを提示しているのです。

 さらに、これまでの“装置”を中心にした現象学的な手法から、パサージュ(通路)から文脈的な構造に変容させた演劇の構造体において、また一つ、氏によってその中心的なものを探るために文脈に対して工作がなされ、問題が提起される。
 空間と時間とがねじ曲げられ、したがって幾何学と代数学とが分離される。その時、はじめてこころが、生命がどの位置に閉じこけれれているのかが判明される、という仕掛けになっている。
 このあたりを、詳細にというより、漫談的にというか、渉猟してみようというのが私のこのブログの狙いです。

Saturday, June 21, 2008

シュウ ウエムラと大河内菊雄

シュウ ウエムラのほかに、一昨年、私はもう一人の親友、大河内菊雄を失っている。これもやはり癌による死亡だった。
今になって考えてみると、私はこの二人から人間の暖かさと、大きさを教えられたような気がする。二人とも家柄が良かったのだが、それだけでなく人柄の良さとその才能によってだった。
私を間に置いてこの二人は全く接触がなかったのは、大河内は社会に出ての出発時は、神奈川県立美術館の学芸員だったのだが、それから間もなく大阪に移転し、読売テレビから伊丹美術館の館長になり、そのまま関西に住み留まったからである。

ウエムラと始めて会ったのは、大河内が大阪に移転してからだった。
しかし、数年前のクラス会で、隣りに坐っていた大河内から思わぬことを知らされたのである。それは、シュウ ウエムラのメイクアップ コンテストとメイクショーの大阪公演では、私とウエムラの二人は千里の読売ホールが気に入っていて、よくそこを使っていたのだが、そのホールはじつに変わったホールだった。
歌舞伎の花道のよう二本の張り出し通路が付いているだけでなく、なんと舞台と客席が同じ広さなのである。ステージが広すぎるばあいは、必要によってそれを半分に区切ることは出来るのだが、こんな思い切った劇場はヨーロッパでも見たことがない。

「だれが、あんなものを考えたのだろう。劇場の事務所に訊いたら、ステージをテレビ撮影にも使用できるようにしたのです、と言っていたが、花道はモデルが歩けるだけでなく、テレビ・カメラがそのまま、同じ高さでステージまで進める。あれは素晴らしいホールだよ。」と隣りの大河内に話したらば、彼はぼそりと「あれはぼくが考えたんだ」と言ったのだ。

そのように、学生時代から大河内は意外な発想をする人だった。
彼の祖父は元東京帝国大学教授で、後に貴族院議員になった大河内正敏氏だ。理研こと、理科学研究所の所長を終戦時まで25年間務め、研究成果を産業につなぎ偉大な事業を成し遂げたことで知られている。

理研グループの最初の工場が、新潟県の柏崎に建てられた関係から、田中角栄が氏に近づけ、生涯の師と仰ぎ、彼の「列島改造論」の発想の元になった、といわれるが果して実質はそうだったのか。
物理、化学の科学者の研究集団であった理研は、研究した成果を産業化して60を越す大企業のコンツェルンを築いたのだが、今のベンチャー企業のように利益に向って暴走しないように歯止めをかけていたのだ。

一方、研究所本体の方は研究、人事、財政に自由を与え、事業とは一線を劃して、代りに産業団への特許料を理化学研究所の研究資金に当てていた。必要な資材は遠慮なく購入できるようにし、研究だけに専念できる環境をつくり、世界にも例を見ない産学の独立・共生、循環方式の成功を成し遂げたのである。


シュウ ウエムラの祖父も明治生まれの成功者だった。若くして単身イギリスに渡り、洋服生地のラシャに着目し、それを日本に輸入することを実現し、天皇の洋服生地に使用されることからはじまって、日本橋の日銀の隣りに店を構え、郊外の成城の地に5000坪の別荘を持つまでになる。

私がウエムラに家を訪ねたときは、すでに祖父も父もこの世を去っており、日本橋の店も閉じて、彼の住んでいた成城の家は5000坪から3000坪になっていたが、宏大な芝生の庭の中央に池があり、それを囲んだ家屋の部屋数は空き部屋を数えて30余もあった。

これは後で知ったことだが、彼の母親は諏訪家の出なそうで、諏訪家といえば、天皇家、出雲家と並んで日本三大旧家のひとつに数えられる。そしてウエムラ自身は亡くなる前には諏訪家の直系にいちばん近い位置にいた。
そう考えると、六本木ミットタウンに“shu sanctuary”という神がかった名前の美容ゾーンをつくった意味も分かるような気がする。

Wednesday, February 06, 2008

シュウ ウエムラ

シュウ ウエムラが亡くなったのは昨年12月29日だったそうだ。ちょうど年の暮れなので、親族だけの身内で密葬し、今年の松の内を過ぎて公表した。
私がウエムラの秘書からそれを電話で知らされたとき、思わず、むせび泣きをしてしまった。こんなことは、かって無かったことだ。

肺炎が原因というが、末期癌が骨にまで侵していたのだ。最後に「及川に会いたかった」と言ってから、大きくひと呼吸してそのまま逝ってしまった、という。ちょうど、その日の朝、「なぜ、連絡がとれないのだ」と嫌みの手紙を出していたのだ。

シュウ ウエムラの後には、もうあれだけの人間は美容界には出てこないだろう。アートを理解し、その上に大きな人柄だった。ヨーロッパでは「シャネルが化粧品をファッションにし、シュウ ウエムラがアートにした」という定評がある。

ウエムラは80年代の頭初からアートを後援してくれた。たんに金を出すだけでなく、アートの意向を察してくれた。前衛的なパフォーマンス運動に援助する人など他にはいなかった。そして、彼のメイクアップ ショーもパフォーマンス的だった。

ヤン・ファーブルの『劇的狂気の力』、パリ オペラ座のGRCOPの招聘。それに東京アートセレブレーションやパフォーマンスのパリ公演など。
しかし、彼の見識の素晴らしさは、バブル期に起こった企業メセナや文化事業の風潮と同時に、アートへの後援を中止したことだったかもしれない。

ジョン・ケージとカニングハム

ジョン・ケージとカニングハムはほとんど同じ思想を持っていた。思想と言っても観念的なものでなく、生きることに結びついて、そのまま彼らの芸術活動の芯になっていたものである。
あれだけ永いあいだ、いっしょに仕事をしていて2人は一度も言い争ったことがない、という。
私は2人の本は読んだことはあるが、実際には会ったことはない。ただ、ヴィデオで観たかぎりでは、考えは同調したのだろうが、性格が全く違うようだ。たぶん互いに相手の才能を尊敬していたのだと思う。
カニングハイムが、最初シアトルのコーニッシュ・スクールという芸術学院に在籍していたとき、ダンスレッスンのピアノ伴奏をケージがやっていたのだ。
先に、カニングハムがマーサ・グレアム舞踊団に誘われて入団し、その数年後にケージがグレアムのところに現れたとき、直ぐに「2人でコンサートの準備をしよう」と言い出したそうだ。じっさい、ケージもインタビューで「カニングハムをグレアム舞踊団から去らせたのは自分だ」と言っている。

彼らの尊敬する人物は、ソロー、フラー、マクルーハンであった。ソローからは自然とアナーキーを、フラーとマクルーハンからは有用性(ユーティリティ)とネットワークを学んだ。ついでインドの東洋思想から東アジアの中国の荘子・易と日本の禅へと関心がすすむ。それが2人の創作方法にそのまま応用されて行ったのである。

不思議なことに、マース・カニングハム舞踊団のカニングハムの振付けと同舞踊団の音楽監督のジョン・ケージの音とは別々につくられ、平行して演じられた。いわゆる音楽をもとにしてダンスが振付けられるということはなかったのである。
カニングハムは空間の中のポジションと動きに、ジョン・ケージは音の調性とリズムを。また、カニングハムは内側からのエネルギーの連続を、ジョン・ケージは反復と沈黙をベースにしていた。

しかし、考えてみると、これは“偶然”をベースにしたハプニングから出発しているのである。

Wednesday, January 30, 2008

ポストモダン(2)

ここに『カニングハム 動き・リズム・空間』(石井洋二ほか訳 ジャックリーヌ・レッシャーヴ 新書館)という本がある。これはジャックリーヌ・レッシャーヴがマース・カニングハムにインタビューして纏めて本にしたものである。その中からマーサ・グレハムから分離してジョン・ケージとの共同作業に向うまでの状況を語っている部分を以下に引用しましょう。

「ー グラハムの周辺にはあいかわらず、閉鎖的な雰囲気があるような気がしてしようがありませんでした。彼女の作品そのものは決してそんなことはないのですが、彼女をとり巻く周囲の人たちにそういうところあったのだと思います。時とともにそういう雰囲気にも変化が生じたかもしれませんが、当時は非常に閉鎖的でした。もっとも(ドーリス・ハンフリーなど)他のモダン.ダンスのダンサーたちのところでも。似たりよったりだったのですが。ひとつのグループに属している以上、他の誰とであっても、何もできないというのが一種の暗黙の了解でした。私がクラシック・バレエの仕事をし始めた時、モダン・ダンスのダンサーたちの多くは、奇妙なことをするやつだと、ほとんど気違い扱いでした。もっとも私は、自分がクラシック・バレエの勉強をしてみたいという気持ちで始めたのですから、人が何を言おうと気にはしませんでしたけれど。
画家のグループと知りあいになり始めたちょうど同じころ、ジョン.ケージを介して音楽家たちとの往き来も始まりました。1944年に私たちが例の第一回目のコンサートを催した時、私たちを見にきてくれた観客は数の上ではもちろん少なかったのですが、その大半はこれらのアーティストたちだったのです。ダンサー仲間はほとんど来てくれず、たぶんグラハム舞踊団の何人かが見にきてくれていたと思うのですが、誰だったのかも思い出せません。いずれにしろはっきりと覚えていることは、新しい可能性の開拓に興味を持ってくれた、たくさんの画家や若い音楽家たちのことで、ダンサーたちは記憶の外なのです。ーーー いづれにしろ、私は自分の仕事を進めていけばいくだけ、モダン・ダンスの仲間とのあいだに距離を置くようになり、事実そうならざるをえなかったのです。」(訳 石井啓子)

カニングハムは、1946年にマーサ・グラハム舞踊団を去ることになる。その後、カニングハムとケージの2人は巡業に出かけるが、ノース・カロライナにあるブラック・マウンテン・カレッジの夏期講習会に招かれる。2人にとって、これが思いがけない幸運となった。そこに集結している、大勢の優れた前衛の画家、音楽家、詩人たちに出会うことができたからだ。
とくに、ジョン・ケージが企画したエリック・サティ=フェスティバルの『メドゥーサの罠』では尊敬するバックミンスター・フラーと関わることができたのである。この後の52年に再度招待された際には、画家のロバート・ラウシェンバーグと初めてそこで知り合い、その後のカニングハム舞踊団の協力者となる。
このブラック・マウンテン・カレッジは、芸術家たちに自由な場を与えていたので2人は計らずも実験の場を得たことになる。
また、そこに集まった詩人たちはブラック・マウンテン派を形成し、サンフランシスコ派のビート詩人たちと呼応して、時代の風潮を変えつつあった。
カニングハムにとってのブラック・マウンテンは、後のトリシャ・ブラウンやイヴンヌ・レイナーらのジャドソン・チャーチに匹敵する。

この時点では、もちろんポスト・モダンという名称は生じてはいない。しかし、ポストモダンダンスはこの時から芽生え始めていた、と思う。
カニングハムは踊りの技術を与えられたものとしてでなく、自分のからだで納得した上で動きをつくり出そうとし続けた。そして同時に、人間の感性をいかにして越えられるかを動物を対象に研究してもいた。また、コンピュータ技術が発達した80年代に入ったとき、誰よりも率先してそれを振り付けに応用したのはカニングハムだったのである。

ポストモダンダンスを語ろうとし、また自らを納得させるために歴史への解釈を辿ろうとしたのだが、カテゴリーの落とし穴に入る寸前にカニングハムとケージの息吹に触れ、思いをあらたにしている。ポストモダンダンスはスタイルや傾向ではないのだ。デリダがいう無意識のエネルギーがつくる“差延”の働きの交錯が、すでにこの時代に“脱構築”のポストモダンを準備していたのだ。

ポストモダン(1)

ケイの関わったアメリカのポストモダンダンスについて、ここで触れておきたい。ポストモダンとポストモダニズム、あるいはポストモダニズムとデリダの“脱構築”との関係についは、詳しくは、このブログの後で1984年以降のパフォーマンス活動を語る際に検討する積もりだが、その前にこのアメリカのポストモダンダンスに触れるに当たって、その論議対象の全体の構図を設定しておきたい。
そうしないと、ポストモダンダンスの展開もポストモダンの傾向の範囲内で動いてきたわけで、その大枠を掴んでおかないと歴史の判断を誤ることになるかもしれない。

この問題はひじょうに複雑化しているので、その歴史的な区切りと、その傾向を動かした重要事項をおさえて置かないと、明確なイメージを描くことは難しい。そして、これはすでに歴史としてすでに過ぎ去った芸術の傾向または時代思想ではなく、私の思いでは、これらを釈明しないかぎり前へ進めない状況なのである。
そこで先ず直接問題を提案したことによって起こった、区切りから始めることにします。一つは1977年のイギリスの批評家、チャールズ・ジェンクスの著作『ポストモダンの建築言語』、もうひとつは1979年のフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』という書物によるものである。

前者はポストモダンを、後者はポストモダニズムを問題としているのだが、やがて傾向と思想とが、モダンと近代が、さらにモダンと近代の時間範囲がそれぞれの対象によって違って捉えられ、論議が交差し、ますます混乱しているのである。
ポストモダンに関しては、前記のように、最初に建築の側から問題視されたので、その当初の状況と建築に関する傾向については『ポストモダンの時代と建築 磯崎新対談』(鹿島出版社)、『週間本17 磯崎新 ポスト・モダン原論』(朝日出版社)、『新・建築学入門』(隈 研吾 ちくま新書)などを参照していただきたい。

だが、ダンスについてはどうか。それはアメリカから起こったのである。そしてそれをモダンダンスのマーサ・グレハムの舞踊団から離れた時点での、舞踊家のマース・カニングハムと音楽家のジョン・ケージの仕事の発足に置くか、またはその後のトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナーらのジャドソン・ダンス・シアターの創立の時点にするかだ。
その選択にはフランスの哲学者デリダが、1966年にアメリカのジョン・ホプキンズ大学で“脱構築”に関する講演を行なったセンセーションを契機に起こった“脱構築”の風潮を汲む必要がある。しかしケージに関する限り、彼は生まれながらにして脱構築されている人間なのである。そのためカニングハムのダンスはある意味で先行していたのかもしれない。
その他に、ポストモダンのもうひとつの特徴“差異と反復”の問題もる。これもデリダの“差延”と平行して、やはりフランスの哲学者のジル・ドウルーズの同名の『差異と反復』という著書の影響も、その後の80年代のミニマリズムのダンスの動きの思想的な背景となる。

だが、このポストモダンの傾向を単なる目先の時代の兆候として捉えていいものだろうか。音楽の歴史において、“差異と反復”はフーガやソナタ形式にしろ、それを土台にして創られていたので、その方法が壊されたのはロマン主義の感情を主体にした内面描写からなのである。ということは、近代のユーロッパはギリシャのプラトン哲学のイデア(理念)の“同一性”を基準とする知性の概念操作を芸術の伝統の基礎にしていたのである。
それがフロイドの無意識の世界と,20世紀に入ってからの分子化の進行によって、抽象化、還元化に向い、差異と反復の問題が無意識またはエクリチュールの深部でどのように織りなされているのかが問題視されてきたのである。脱構築というのは、これまでの構築のそれらの内部からのひび割れと解釈するといい。

Saturday, January 19, 2008

『ランチ』前後のケイ・タケイ(2)

ケイのフルブライト給費生としての留学前の、日本での舞台歴を辿ってみよう。

1965年1月 グループVAV公演(朝日ホール)『傾斜の存在』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 武井 慧 三浦一壮 西森守・出演
1966年3月 アルトー館第1回公演(草月ホール)『爆弾』 河野典生・作 MJQ・曲 及川廣信・演出 及川廣信 後藤博道 武井 慧 高藤 翠 松岡園子・出演
1967年4月 アルトー館第2回公演(草月ホール)『ゲスラー・テル群論』 大沼鉄郎・作 小杉武久・曲 及川廣信・演出 土方 巽・主演 武井 慧 大野慶人 石井満隆 笠井 叡 大橋純一 三橋郁夫 吉村 修 城山忠正 堀 澄子・出演

その後、たぶん1968年に、ケイは渡米したのではないだろうか。
そしてジュリアード音楽院在学中の1969年に『ランチ」を発表したのである。つづく「ライトシリーズ」の活動の後、前述のように1977年に10年振りに来日公演を行なったのだが、その翌々年の1979年にも彼女は再度、来日公演を行なっている。これも同じく“ムービング アース”による「ライト シリーズ」の新作品だっ
た。それについての私の『肉体言語』の寸評も以下に紹介しておこう。

「彼女がまだアメリカに渡る前の、踊るモチーフは“怖れ”だった。
その頃の彼女は、小鳥が慌てて羽ばたくような、痙攣する踊りをしていた。しかし、他面、作品を作るときには、自分の内面をよく構図化して網を張り、その中で捕らえられた小鳥のように、怖れの戦きを小刻みに、ダイナミックに踊っていた。作品を客観化しながらも、踊り手の側の、主観がその頃は中心だった。
今度の公演を観て思うことは、彼女は自分も、周りと同じように客観化している。そのために作品は形而上的である。
生身の“怖れ”の生命がいつの間にか消え、物体との抵抗が失せて昇華するということは、アメリカの乾燥度なのか、モダン・ダンスの風土か、異国の独り暮らしのためか。」

ケイの素質とアメリカのダンスの流れとが少しづつ乖離しながらも、その後のミニマリズムやパフォーマンスの動きに取り残されることなく、第一線で自分の位置を保ちつづけて来たことは立派だ。

Friday, January 18, 2008

『ランチ』前後のケイ・タケイ(1)

ケイは『ランチ』の成功の後、「ライト シリーズ」で作品の発表を続け、アメリカ公演だけでなくカナダ、イスラエル、スペインなど海外公演も行なううちに、彼女の人気も高まり、しだいに教えを求める生徒も集まり、やがて“ムービング・アース”という舞踊団を結成する。
その活躍の噂は、情報が切断されていた当時の情勢の中でも耳に聴こえて来たが、1977年に突然彼女は“ムービング・アース”という一団を引連れて来日公演をする。作品は「ライト シリーズ」。

それについての私の寸評を、当時の同人誌「肉体言語」(9号)から抜き取って以下に紹介しよう。タイトルは「向う側から来たケイ・タケイ」。
「向う側とはアメリカのことでなく、未知の鬼の住む国のことである。
※ 舞台奥の垂れ幕の中央に、日の丸のように暗黒の穴が空いている。その前面に四角に敷きつめられた仮りの場。人間どもは暗黒の片隅から這い出て、ロボットのように生活する。一人は算えて、奥の暗い穴にボールを投ずる。
※ 「あんたがたどこさ、肥後どこさ」小石をもてあそぶ子供の遊びが、いつの間にか賽の河原の場面となる。小石で作られたサークルの内と外。子供と鬼の世界、やがてサークルがいろいろと形を変え、魔術的に働くサインとなる。

1977年の夏、彼女は10年振りにやって来た。アメリカの市民権を得たという。その時、私にお土産にくれた
ものは、直径約4㎝の、丸味を帯びた平たい、なんの変哲もない石だった。ただ珍しいことに、その真ん中に、直径1㎝ほどの穴が空いている。彼女はそれにプルーのリボンを通して結んであった。アメリカのどこかの地区の川縁にだけある石だという。
ベケットの小説の中に、放浪しながら小石をポケットに入れて、手でそっと触れる男の話がある。私も小石が好きだが、小石を好きなのは分裂質の人間なのだ。硬質の手触り。この世界のリアリティの殻の固さ。その穴の向う側にひそむ、暗黒の未知の世界。そこから生まれて来たが、死がひっそりとそこに待ち構えている。

ケイ・タケイは、小石が秘めるそのぎりぎりの意識を、あの作品の中に構造化して見せてくれたのだ。」

Wednesday, January 16, 2008

ケイ・タケイの『ランチ』

ケイ・タケイは「今、思いだすこと・・・」の中で次のように語っている。
「ランチの創作に初めて入ったのは、ジュリアードの学生時代である。とても小さくて暗い北向きの窓が一つだけの部屋、その学生寮(インターナショナルハウス)の一室で私は何とも心晴れない日々を送っていた。そして、このベッドの上と、机とベッドの間の細長い空間が私のリハーサルルームであった。外へ出るのも明るいところに出てゆくのも嫌なそんな時期、しかし私には舞踊を志す親友たちがいた。チリのカルメン、ペリーのエルシーとノエミ、ウェルズのマール、彼らは私の発想や動きを“incredible(驚き)”といつも支えてくれた。『ランチ』のなかで私と共に動く女は、このカルメンであった。私は時々、カルメンのアパートへ行く。イーストサイドの貧しい地域、暗い生活を送る人々が集まるところだ。しかし、カルメンと私はこのアパートで踊った。夕方になると56丁目のウェストサイドにあった日本レストラン「ヒデ」にバイトに行く。そしてシーズンになると、カキをテーブルに運ぶのだ。ピカピカ白く光るカキの殻がお皿に残ると、私は嬉しくて、嬉しくて大急ぎでお盆にのせ、裏に運び懸命に集めた。そのカキの殻が『ランチ』の中で白くどこまでも続く細道になった。」

ケイがフルブライト留学生として渡米し、1969年にニューヨークで初めて上演して注目を浴びた作品、彼女がその説明に苦しんで“白昼夢のような”という、この舞踊演劇を観ることを私はながいこと待ち望んでいた。なぜなら、その作品を契機にその後70年代に入ってからの彼女は、アメリカの現代舞踊の最前線の5人のダンサーに選ばれたのだから。
他の4人のダンサーとは誰だろう。あえて彼女に問うてみなかったが、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーについで、ローラ・ディーンとルシンダ・チャイルズだろうか、それともメレディス・モンクとトワイラ・サープなのだろうか。いづれにしろ、ケイはアメリカのポスト・モダンダンスの中心に位置を占めることになったのである。

幸いなことに、ケイのアメリカでのこのデビュー作『ランチ』を昨年2007年の12月29日、シアターXで観ることができた。ショックだった。“白昼夢”どころか恐ろしい衝撃だった。ケイが前もってそれを説明することができなかったように、私もブログでこのダンス劇を説明することができない。どうしてだろうか?
それは、あの1968〜9年という世界的な動乱の時を身をもって経験したものでなくては表出できないものであり、又その頃のアメリカと日本の生活の落差の狭間に放り込まれた一人の若い日本女性にしか描けないものである。

社会に生きるための衣をはぎ取られたままの孤独な女性の痛々しさと、ただひとつの支えとして心に燃えるダンスへの一途な熱意。ただ、それが直接的でなく、寓話的に一匹の猫と2人の女と、一人の男の昼食の場の会話を契機に、人が交わす無意識の流れと、社会の底辺にうごめく無意識と、猫の人間への変身とが同一平面に構成されてゆく。
シュールレアリスムの技法のパターン化をはずしているのだ。無意識がより細分化され、シュールと現実とが連結してシュール自体が現実なのだ。それが、まことに恐ろしい。
その恐ろしさが、あの時代と、ケイのあの頃に置かれた立場から遠く離れた今となっては、当時のアメリカの観客が受けた衝撃を感じれるかどうか疑問だ。
ただ、この『ランチ』があって、次の「ライト シリーズ」の作品に続くことで彼女のアメリカでの評価が決まったのだろう。

Wednesday, December 05, 2007

演出意図(3)

最初、この劇場の天井の高さと客席の狭さに戸惑った。
しかし、今じぶんの考えている日本の芸能の本質的な流れを、その空間形式によって試みることができるのではないか、と思ったのです。
私は、日本の伝統芸能のうち茶道を第一と考えています。それは禅の教えを基本とし、建築、華道、能楽、絵画、書、庭園、香りと食の道など、生活を基盤とした総合芸術である。
そこには主人の招きによって客人は参加し、なんらかの実世界にはない“ゆとり”と“精神性”を得て帰るのです。これには客席が少ない方がいい。

茶道の動作は能楽からきている。出演者の精神性が同じように求められる。場面の配列は、出だしの瀧と影の部分を一番目ものの「脇能」(全員)として、二番目ものは「修羅」(山下浩人)、三番目の「女もの」は「女面」(村田みほ子)とした。四番目は「狂女」(浅沼尚子)、五番目の「切能」は「切り」(及川廣信)とした。
演技形式に関しては舞踏の“アチチュード”に対して“ジェスチャー”部門を強調し、肉体の枠から逸脱する演技空間と、面からはじまる身体的表情を重要視した。ダンスの種別は舞踏と区別するため、あえて歌舞伎から歌を除いた“舞妓(ブギ)”とした。

天井の高さは歌舞伎的仕組みで工作し、場所の意味性を移動させることに務めた。「実と虚」の問題、“おくのほそみち”、舞台設定案とこれらの問題は、最初大串孝二から提案されたものである。大串孝二は、ほかに鐘の実音も演奏し、天井裏にて外部空間を演技者として受け持った。

音響の弦間隆は、スピーカーを上に向け、壁に反射させて空中に音響の渦を巻かせ、客席からそれを間接的に聴く音響構成をとった。
照明の坂本明浩は、光と影を精神性の問題として表現し、電燈のほんのりとした色合いから、場面々々の状態を色と捉え、白光の太陽の光りで宇宙の広がりを感じさせる構成をした。

演出意図(2)

先のブログで[肉体]と[形態]ということばが出てきた。そのことばが出てきた背後に表現としての[舞踏]と学問としての[形態学]がある。
舞踏は神秘主義と生命哲学をベースに、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの<ムーブメント>に対して、<アチチュード>を表現形態の基本としている。形態学は医学・生物学の身体と器官のフォルムを対象とする“差異”の比較から始まったものである。元は“人類学”で、分科系の“文化人類学”に対して“差異人類学”ともいった。やがて計測の対象が身体から顔面に向い、また内部は内蔵から大脳に移動した。それがユングなどの影響によって「心理形態学」「唯脳主義」となり、それらをより表出するものとして「顔面表情」が注目されている。ここで、能楽の「面(おもて)」の表情・キャラクターから始まる表現形式があらためて見直されなくてはいけない。

ここで社会学者コントの学説の宇宙的世界/形而上学の世界/リアリズムの世界から敷衍した、古典演劇の宏大な空間の中にいる表現/形而上の空間を感じさせる点と線と角度の幾何学的表現/皮膚と接触と感覚を基盤にするリアリズム表現を思い起していただきたい。
そして、この3つの世界の下部にラカンのいう想像界/象徴界/現実界がどのような位置を占めて交錯しているかが問題なのである。

映像はイメージである。それはラカンのいう想像界に属すると同時に、「実と虚」の“虚”に属する。だが、カメラで対象を写すカメラマンの行為は“実”である。
加藤英弘のつくった映像の、胎蔵マンダラと金剛界マンダラは、虚でありながらこの世界の実像を両面から伝えようとしている。

美術、音楽、舞伎については、次回に記します。

Tuesday, December 04, 2007

演出意図(1)

12月1日(土)、2日(日)のキッド・アイラック・アート・ホールでの“アートは症状である”の3回公演は無事終了致しました。ご来場いただきました皆様方に深く御礼申し上げます。
さて、今回の公演のねらいは、先に申し上げた通り「実と虚」の問題を出発点としておりますが、それから思考が“おくのほそみち”を辿って、なにやら明るさを見出したような気がします。そのことを前のブログを受け継いだかたちで語ってゆくことにします。

先ず、ルイ・アラゴンとシュル・リアリスムのことから入りましょう。シュル・リアリスムは超現実主義と訳されています。シュル・リアリスムの提唱者のルイ・アラゴンはフロイトの精神分析から影響され、それを文学に適用したのですが、無意識の世界を、現実の世界とは離れた“夢”と通底する世界と捉えている。
ところが、シュル・リアリスム運動に参加したアントナン・アルトーは幼児に脳膜炎を煩い、以後、生涯頭痛と神経症に悩まされつづける。それゆえ、彼にとっては無意識の世界こそが現実の世界であったのです。この点で彼だけが、シュルな運動をしているのではなく、そこにこそ現実のリアリスムがあったのです。

じぶんの意識が置かれている処が、リアルな場所なので、日常的な現実の方が架空なのです。それは仏教がこの世を仮空と捉えるのに相似している。ただ、仏教のばあいは、“こころ”のみが唯一、確かなもので、この世には実体がない、としているのです。この「ない」は“無”とは違う。“空”です。“空”は“無”でもあり、“有”でもあるもの。このあたりに仏教のややこしさがあります。

そこは“物自体”、“物そのもの”が置かれてもいい格好な場所かもしれません。人間でいえば衣服を脱いだ裸の身体から、さらに意味と価値をはぎ取られた[肉体]が。
しかし、その肉体の中に内蔵があり、骨があり、細胞があるー それらを切断する。<分節化>し、<分子化>する。(この2つが、形而上学の世界と宇宙的世界の、それぞれの下部空間における変身的身体表現。ムーンとマーキュリーとサタンが交互に表出する)

そこに、いわば[形態]を排除された断片と浮遊する分子群の動きの様態を見ることができます。それが“象徴界”をはぎ取られた、最終的な“現実界”なので、現象、物体の中にもそれを感じとれる人にとっては、それがリアルな現実の世界なのです。
ラカンが理論化する前に感じとった現実界は、たぶんアルトーが感じとったものとは違うかもしれません。しかし、この下部の“現実界”から、慣習と意味性と視覚の幻覚をまとった日常の世界を眺めていたのでしょう。

ラカンの理論は難解といわれます。ある高名な精神医学者がラカンの講座に出席したが、「なにが何だか皆目分からなかった」と告白してくれましたが、ラカンのいう、日常の地下にあるこの“現実界”を知ったものでないと理解できない筈なのです。
では、ラカン自身は、なぜそれを知り得たのでしょうか。私の推測では、それはアルトーからではなく、ジョルジュ・バタイユからの影響だと思うのです。

Friday, November 30, 2007

舞台空間

社会学の創始者といわれる19世紀のエマヌエル・コントの説は、舞台を創る場合にひじょうに参考になる。
彼によると、ギリシャ時代の人間は宇宙的世界に生きており、ルネッサスから18世紀までの人たちの思考は形而上学的であり、コントの時代である19世紀は、現実的なリアリズムの世界だというのである。

それを舞台芸術に当てはめて考えると、古代ギリシャ劇とローマ時代の中世の神秘劇、それに日本の能楽は、たしかに宇宙的な空間の中で演じられている。能楽はそれに幾何学的な構図があるから中世的な要素も加えられているが。また、ルネッサンスに発生したオペラ・バレエの空間表現は、なるほど幾何学的な、点、線、角度の上に演じられ、腕は直接からだに触れられることはなく、舞台の空間構図、演技者の身体表現すべてが幾何学的な構図に乗っている。

ここで、はなはだ興味を惹かれるのは九鬼周造という日本の哲学者の著した『いきの構造』という本の中の“ものの考え方”である。九鬼はハイデッカーの下で学んだというが、かならずしも、現象学という理論だけでは捉えられないものがある。日本伝来の感性から生まれた直観的な“遊びの自由さ”にあふれている。そして、このコントの形而上学的な空間構造が、彼が説く歌舞伎の形式に相応するとしても、観念の網の目から抜け落ちた部分にこそ彼の目は注がれ、小唄の情緒的な音声にこそ、この時代区分の特性を見ているのである。

それに、歌舞伎の隆盛時の江戸時代は、もはや中世的な文楽の形式に近代的なリアリズムの演技を加えつつあったのである。
ところで、19世紀以来のリアリズムの世界に生きるわれわれにとって、“リアルな表現”とはいったい何か。リアルな感覚、直接的な感性、生理的な体感。より直接的な“物そのもの”に当たる身体的な実感にこそリアリズムの土台がある、と人々は考えていた。

ところが19世紀末に、はからずもフロイトのような人間の内面に関心を持つ人間が現れたのである。
それは、日常生活の表の部分とちょくせつ連動する人間の内的心理とは違う。人間のこころの奥に潜む深層心理と、その葛藤のコンプレックスを扱ったものである。その深層心理が隠された通路を通って現実の目に見える人間の生活を動かす、という。

現実の事象を逆転させる視点が提出されたのである。
ならば、演劇空間としては、19世紀のコントが考えた3つの空間理念に、またひとつ内部空間を追加したらいいのであろうか?
しかし、ここで「現実」とはいったい何か?「リアリズム」とはどこまでを言うのか? という疑問が湧いてくる。
この問いに対して、ジャック.ラカンとアントナン・アルトーが登場してくることになる。

Thursday, November 29, 2007

「アートは症状である」の構成

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール

まず、“おくのほそみち”の細部から入ること。ダンス・パフォーマンスの進行、構成は以下の通りです。

開演 VTRスタート 瀧のVTR + シルエット      3'30"
1場 修羅(山下浩人) ほんのりとした電燈の色合い  10'00"
2場 女面(村田みほ子)状況としての色がかわる    10'00"
3場 狂女(浅沼尚子) 状況としての色がかわる    10'00"
4場 切り(及川廣信) ちょっと明るく        12'00"
胎臟マンダラ 金剛界マンダラ
ラスト 再生(浅沼/村田/山下)           6'00"
太陽の光 青白い明るい光り
オーゼの死 地底にとぐろ巻くへび 耳 宇宙への聴覚 
瀧の逆流するVTR  照明 F.O  VTRが終わる 客電   計)51'30"

 たちこめるそらいちめんのむらさきのくも
    荒川堤赤水門河川敷
 ころされたおとこのしたいがそこにみえる
 てれびでみたえいがのひとこま
 はなしの虚のなかの実のからだ

 わたしはいまここにたっている
 ゆったりとしたみづのながれと
 きしベにうごくくさぐさの細部
  
  象徴界地底現実界曼陀羅図
 ほそみちをおりてゆくひとの影
 おくにきこえるぴあののおとはー

この作品は「虚と実」をテーマにしています。虚と実は、“アートは症状である”という名言を発した精神分析家のラカンの理論によると、<実>は“現実界”に、<虚>は“象徴界”に当たります。彼のいう“現実界”というのは、日常のリアルな世界ではなく、リアルな現実の中に潜む“物自体”ともいうべき世界です。その上を覆っているのが“象徴界”で、言語を基底に意味作用をなす世界です。
われわれは、混合した2つの世界の境界において、空間表現の側からそのテーマに当たるため、地上と地下、太陽と影の面からそれに向ってゆくことにしました。アートの各分野からのコラボレーションによるものです。

Wednesday, November 28, 2007

「アートは症状である」の第2回公演

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
 空間演出:大串孝二/構成演出:及川廣信/ 映像構成:加藤英弘
 音楽構成:弦間 隆/照明構成:坂本明浩/スタッフ:渡辺アルト
               
     
“アートは症状である”の今回は、<美術を前提>にして、各分野のアーティストが関わっています。互いに話し合っているうちに、最初に浮かび上がったのは「虚と実」の問題で、このことが中心となってさらにいろいろなことが討論されたようです。というのは、各ジャンルによって技法が異なりますし、技術の上からしか新しいアイデアは生まれないからです。

今は精神医学と社会学が勢いがいい時代です。われわれはその時代の流れに乗るわけではなく、むしろ時代の慢性的な流れの底辺にある忘れられたものを掘り出したいのです。その意味では今の社会学の“レフレクション(回顧)”の方向に同意します。なぜなら、ポスト・モダンということばには、近代は終わったというニューアンスがあるからです。

果たして近代は終わっているのでしょうか。ウェブの世界ではグーテンベルク以来の革命の時期だという観点から、回顧どころか新進化論を唱えている人々がいます。前へ進むものと、振り向くもの、しかし今は一人の人間の中に、この強力な逆方向の引力が働いている時代なのだと思います。

新しい発想、発見。優れた学説や技術があるなら、その中にもぐって、さらに独自なものを創り出せ。ここにも、愚化しない孤高の精神と、共同作業が生み出すものへの期待があります。
アートは症状であるのでしょうか。それは精神医学的症状なのでしょうか。多分それは気質的なものではなく、その時代の意識・感覚を、日常の枠を越えて仮想として表現する(再現 レプレザンタシオン)からなのでしょう。