私にとって、土方巽の本質的な部分と思われるものを知ることができたのは、1956〜60年間の彼の行動である。その間に、彼はいろいろ周囲から批難され、彼なりにも苦悶しただろうし、結果いちどは「踊りを止める」と宣言して帰郷したのだが、再度上京して舞踊界を放浪し、その間舞踊の外部の美術のネオ・ダダのメンバーにも接触し、最終的にはネオ・ダダ以前のダダイズムの舞踏家津田信敏の傘下に加わることになる。
だが、ここで往々にして現実とことばが背離するのだが、「傘下に加わる」というのは精神的な意味で、彼が津田信敏が主催する’59年と’60年の2度の「女流アヴァンギャルド公演」に大野慶人といっしょに援助出演しているということである。
それに対して、現実面はどうかというと、津田信敏の舞踊研究所なるものは、所有権はお弟子さんであり、当時、津田夫人でもあった元藤燁子にあった。ところが、この公演後間もなく津田信敏は他のお弟子さんといっしょに元藤燁子のもとから出て行ったのである。そして外見には、その後釜に土方巽が入り込むようなかたちで元藤燁子と結婚し、津田舞踊研究所が土方のアスベスト館になったという現実である。
1956〜60年の5年間というものは土方巽だけでなく、60年代に先行する「反逆と苦悶と孤独な模索」の時代だったのである。世界的な時代特徴としては“ビート・ジェネレーション”の時代である。たとえば’58年の4月には、当時異端として土方と並び称せられた若松美黄は東京新聞主催の第15回舞踊コンクールで『反逆児』という作品で入賞。同年5月には津田門下生グループ『反旗』の第1回公演が行なわれた。
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