大野一雄さんは付き合ってみると、随分我が儘なところがある人で、じぶんのいろいろな分裂した欲望をひとつにまとめることが難しかったのだと思う。言ってみれば、ジジェクの<想像界=鏡像段階>に相応するが、滝沢修や友枝喜久夫への思いの例も、鏡を見ながら自画像を描くときのように、理想的な他人の姿に自分を写しだして、対象と同化しながら自己の内部の統一を計っていたのだと思う。
舞踏家大野一雄のばあい、一般には何てこともないものが、彼によって突き詰められた結果、思わぬ価値を見出してくるのだった。大野一雄については、正直に言って長い間、この人はいったいどういう人なんだろう、この踊りはいったい何なんだろうと、思いあぐねてきたところがあった。私以上に付き合ってきた元藤燁子にしても同じ思いを告白したことがあった。
大野一雄については、この難問のまとめとして、舞踏 土方巽と並列して舞踏 大野一雄のカテゴリー(ラベル)をつくるので、それを参考にしてもらいたい。さて、話を勅使川原三郎に戻して、その後の彼との付き合いからヒノエマタ フェスティバルに至る道を急ごう。
勅使川原三郎に仕事の呼びかけをしたのは、表参道のシュウウエムラ ビュティー ブティックの開店1周年記念行事としてのメイクショーの巡業公演のときだった(1953)。これはメイクショーといってもSFサスペンスの体裁をとったものだったが、その場面のつなぎが勅使川原の役だった。長崎から仙台までの7ケ所を巡る公演の間、私と彼は毎夜、マイムの技術と将来の展望について語り合った。その時のマイムの“人形振り”から宇宙人への変身技術が発案され、彼の独自なダンスへの出発となった。
Wednesday, August 08, 2007
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