大野さんを“わがまま”な人だと前記したが、べつの言い方では“主体性”を持った人と言い換えることもできる。普通、主体性を持った人は、じぶんの内部の亀裂した思いを言語で統一したかたちで自己表出するのだが、それが大野さんのばあいは矛盾が残ったままでいる。
たとえば、ヘーゲルの弁証法は、一般には“正・反・合”の統一までの論理的プロセスとして理解されているのだが、これを相反する二者対立の矛盾のまま合一しないものと解釈する立場もある。大野さんの立場はそれに当たるので、相反するものの真ん中をとって無理に合わせることをしない。主体のない、ことばの解釈に準じて相手と融合することを嫌っているのだ。矛盾のまま“合”を永遠に延期させているのだ。
大野さんは、言語の抽象化に頼ることをしない。“お母さん”の胎内と結ばれた実在としての身体感覚だけをじぶんのエリアとし、それを土台に生活し表現しているのだが、矛盾が起きたばあい、あくまでもじぶんの身体に問い、それでも解決できぬものは、物と身体の現実世界の向こう側にいる、現実世界の現象ぜんたいを形象化した姿と考えられる“神”を信じるほかないのである。
そこに行く過程として、無私と無欲の自然体としての老子の“無”の生活が適応するのだろう。そして、最終的にキリスト教を信じることに自分の支えを見出そうとするのだが、大野さんのばあいは、じぶんが戦争中召集され、憲兵将校であった体験から来る罪の意識が、じぶんをあえて“ユダ”だと言わせているのではなかろうか。
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