私が1958年5 月、マイム劇団「トーキョー・コメディ」の公演で、能の「生田川」を加藤恵の翻案でヨーロッパのマイム方式によって演出したが、舞台美術のオブジェは小原庄に依頼した。そのことをあえてここに記すのは、小原庄と図師明子はこの時まではブラジルに向って出発していなかったということだ。
そして、前年10月の公演「くさりを離れたプロメテ」に図師明子が出演した時には、土方の姿を舞台裏に見かけている。土方の踊りを断念して帰郷するという決意の告白は、その時の物言いの態度から察すと、堀内、安藤のところから去るための単なる口実ではなかったような気がするが、果たしてその時の月日を推定するとなると、半世紀過ぎた今となっては無理である。だが、「生田川」の公演前後だったと思う。
その土方巽が「生田川」から5ヶ月後の1958年12月のヨネヤマ ママコの金田一京助作「ハンチキキ」(バレエ・パントマイム)の舞台に出演している。ママコは先の「くさりを離れたプロメテ」に出演しているが、いったん踊りを断念して帰郷した筈の土方巽が再び上京し、こんどはママコのスタジオに住み込む。しかし、公演が終わると、土方はママコのところからも出る。
そして、1959年5月、第6回新人舞踊公演で、舞踏の出発点となる大野慶人主演「禁色」を発表するのだ。その時、大野慶人は私のマイムのスタジオに入って未だ1年半ほどしか経っていなかった。能が“物まね”を基本としているように、ヨーロッパのダンスも本来はマイムと結合したものである。それは歴史を見れば分かることだ。土方の舞踏の出発は、マイムの“アチチュード”を土台にして、跳ばないことから始まった。
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