当時、大野一雄はなぜ滝沢修に熱中していたのか。それは私にも納得ができる。というのは、私自身も演劇青年だったころ滝沢修の演技に憧れていたのだ。私のばあいは、滝沢修の舞台演技より、むしろ彼のリアリティの部分をもっとも発揮した吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」の演技だった。滝沢修は『俳優修行』という本も出していたが、彼ほど身を徹して俳優術に打ち込んでいる人はいなかったろう。昨日のブログに、大野一雄は滝沢修の演技を「研究」していた、と記したが、大野さんの「研究」というのは独特で、研究した結果が出るというのではなく、ああでもない、こうでもない、と反問しているうちに“無”に辿りつくようなもので、その間に対象と同化してしまうのである。こう書いてしまうと。大野一雄の舞踏の姿の中には、どこか滝沢修と友枝喜久夫の面影が見えるような気がする。
それは実体の重さを感じさせない、精神の“軽さ”なのかもしれない。滝沢修がステージで椅子に腰掛けたばあい、身の重さを椅子にあづけるようなことをしない。優れた茶道の師匠が坐して点前をするとき、腰を浮かして脚とお尻の間に隙間を持たせるのと同じである。
勅使川原三郎が日本マイム研究所に入った頃は、たぶん大野一雄は講師の座を去っていたような気がする。慶人が私のところにマイムとクラシックバレエを学びに来た時は、まだ17歳だったと思うが、日本マイム研究所ができる2年前だった。慶人はそのまま日本マイム研究所の一期生として在籍する。勅使川原と大野親子が初めて対面するのは、第4回のヒノエマタ フェスティバルの神社前広場での競演の時だった。
Tuesday, August 07, 2007
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