土方巽と図師明子の2人は堀内完・安藤三子ユニークバレエ団の団員で、小原庄は美術の仕事をしていた。小原はネオ・ダダのメンバーで、土方の後のネオ・ダダの傾向への橋渡しをすることになる。私がこのバレエ団と直接関係を結んだのは、1956年6月、湯浅譲二作曲「カルメン」に出演依頼されての時からである。
土方巽と私との関係は、堀内完、マイムでの大野慶人、マイム劇への出演と装置を依頼した図師明子と小原庄、その後になるがマイム研究所での大野一雄などを通して複雑な繋がりをもつ。前述の、土方が「ぼくは、踊りを止めて湯沢に帰ります」と告白したのは、1957年10月の図師明子が出演した「くさりを離れたプロメテ」の時でなく、翌年5月の小原庄美術「生田川」の後だったような気がする。
それは、当時まだ闇市のマーケットが残っていた国鉄新宿駅東口広場にあった屋台でのことだった。安藤、堀内、及川、土方の順に並んで話しをしていたが、話しの合間に突然、隣りの土方がそれを言い出したのである。私は思わず土方の顔を見た。彼はそれっきり黙して俯いていた。土方は確かに、掘内、安藤にとって“持て余し者”だった。それに彼は金に窮していて、図師明子に無心してはうるさがられていた。
小原がひとりブラジル行きを決意したとき、図師は「私もいっしょに行く」と言った、という。「貴方は後で土方がこんなに有名になると思っていましたか?」という私の質問に対して、図師明子の応えは、ただ顔を横に振るだけだった。
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