ヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルの前段階として、勅使川原三郎と日本マイム研究所のことを話しておくのも必要かと思う。日本マイム研究所は1960年に新橋の田村町に、舞台美術家協会会長の吉田謙吉(築地小劇場の第1回公演「海賊」の舞台装置家、川端康成の「伊豆の踊り子」の初版本装釘家)の後援によって設立された。私がその初代所長に任命されたのだが、週三回のレッスンの内、火・木は私が教え、土曜日は最初の2年間は安藤信也(早稲田大学教授、“アンチ・テアートル”の日本への最初の紹介者)が、安藤が演劇博物館長に任命された後は大野一雄が担当した。
一般に、マイムというとパントマイムのイメージを抱くが、私と安藤はエチアンヌ・ドゥクルー(ジャン・ルイ・バローとマルセル・マルソーの師)の下で学んだ経験を持ち、最初はそのメソッドに準じていた。それはからだと動きの分析を主体とするものであった。大野一雄はその頃はモダンダンスから舞踏に移動し、土方巽に提出されたジュネの作品に啓発されていたが、もともとマイム的なダンサーであり、新劇の名優滝沢修の演技を“研究”していた。その後、彼の崇拝の対象は能の喜多流の友枝喜久夫に移る。
勅使川原三郎がこの日本マイム研究所に在籍したのは、私が8年間所長を勤めて京都に移住した後の佐々木博康所長の時代で、かれと最初に出会ったのはマイム劇団「気球座」(早逝した並木孝雄が主宰。ヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルに2度参加)がプロデュースした公演の時で、彼のシュールレアリスティックな作品に感銘を受けていた。かれはすでにクラシックバレエの技術を習得していたし、美術的センスにも優れたものを持っていた。
Monday, August 06, 2007
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