私は本能的にアルトーという名前をじぶんの活動体に付けたかった。たぶん、今になって思うのだが、アントナン・アルトーが彼のシュールレアリスム時代に、アルフレッド・ジャリに敬意を払って彼の劇団名をジャリ劇場と命名したように。それは他者の名を借りて権威づけるためではなく、じぶんがこれからやろうとすること、ことばを含めて身体をテーマとする課題、またそれをもとにした文化的活動へのモチーフをアルトーに負うていたからである。又もう一つ、これは私自身の内面の問題であるが、ながい間抱いていたトラウマの原因を彼の書物との出逢いによって解消してもらった感謝の気持ちからでもあった。
当時としては幾多の困難を要した海外渡航を決意し、そこでの視野と経験と帰国後の試練の時期を経て、やっと観念とことばの世界から脱けだしはじめた時、アルトー館という名称で、公演企画を行なうことにしたのである。だが、現実のアルトー館という研究所が出来上るのはそれから3年後のことであった。
公演の制作を意図したが、製作のための準備金は十分ではなかった。それは私がTVのコマーシャルや映画出演で稼いだ資金だった。場所は赤坂の草月会館にした。第1回はコンメディア デラルテの再現と、大野一雄・慶人の「部屋」、第2回は西宮正明の映像と、土方巽の「ゲスラー/テル群論」であった。そして第3回は観世寿夫作曲の新作能「花の宴(ジル・ドレー)」(作・ 高橋睦郎 演出・堂本正樹)を予定していたのだが、曲の出来上がりが遅延しているうちに、氏が逝去し、この公演は中断したままとなる。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment