大野一雄の舞踏の素晴らしさを要約すると、前記したマニエリスム的な美的感覚のほかに、あでやかに女装するアンドロギュネス的な演技、また美と醜、優美とグロテスク、豊穣と欠落とが同居する、世界の終末の無惨な姿である。そして、それと対比するように甘い西洋へのあこがれの大正ムードの香りがただよう場面もある。舞姫アルヘンチーナへのあこがれから発して、ショパンの曲、Ave Maria、またプレスリーの歌など。それらが聴く者の遠き日の憶いを突き動かすのだ。
作品の構成、演出は、一見するとどの作品も同じ形式で、同じようにすすんで行くように見える。だが、よく観察すると同じ大野一雄が演じ、同じ構成であってもその内容は違っている。それは能の形式に似て、能は面と装束を選択し、それをもとに演者がイメージしてキャラクテールをつくり、演じるのだが、大野一雄のばあいは、それをメイクとヘアとコスチュームのアートディレクションで行なっている。その任に当たっているのは大野慶人夫人の大野悦子である。かの女は慶人と薬局を経営する傍ら、その技術を学んだ。
作品の能形式と、変身をもとにした演技展開、この2つが作品の柱となっている。
それは、もしかしたら、大野一雄の能楽師友枝喜久夫へのあこがれから来ているのかもしれない。それと、演出の大野慶人には、大仏次郎を通じての歌右衛門、また郡司正勝の「かぶき」のイノベーションなど、歌舞伎にも繋がりがあったことを知っておきたい。
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